アンサーソングは届かない

マンチェスターシティとRe:ステージ!を愛するブログ 考察とかを書いてます

「なにが好きか」より「なぜ好きか」

好きなものがある。好きな人がいる。誰もが「好き」を持っていて、それが集まってあなたや私を作り上げる。「好き」はいい。「好き」は幸せの原点だ。

 

「好き」には2種類あると私は思っています。「なにが」で語る好きと「なぜか」で語る好き。この2つを私たちは持っていて、普段は全部まとめて「好き」と表している。

 

もちろん、人の好きなものについて何か言うのはナンセンスだと思う。けど「なにが」で語る「好き」はどうしても軽いくて浅い。「なぜか」で語れる好きは深みがある。私は「なぜ好きか」をたくさん持ちたいと思っている。

「なぜ好きか」が持っている深みは年月の積み重ねそのものである、ともいえる。「好き」という感性は絶対的に主観的で、自分を中心にした概念だ。「いいよね、これ」と言えるのは、裏に存在している無数の過去のワタシがいるからこそ。

 

そんなことを考えたのは、結局「好き」という話を共有したいからだ、共感してほしいからだ。

私たちは好きをテーマにしゃべるのが楽しい。同じバンドを好きならばそれだけでうれしいしなんとなく共感できて、相手のことを素敵に感じる。好きは人を繋ぎ、世界を広げる。でも、「好きなんだ」「わたしも」という会話と「ここが好きなんだ」「わかる!こういうところもいいよね!」では共感の深さが違う。共感の深さはそのまま関係の深さになって、深ければ深いほどいいなと私たちは感じているのだと私は思う。

「なにが好きか」より「なぜ好きか」を共有したい、私たちは本質的にそうできているのだと思う。「なぜ好きか」は過去のワタシに繋がっていて、ある意味私の価値観をさらけ出す行為だ。だから「なぜ好きか」を共有できることは「好きなものを超えてあなたのことが好き」に限りなく近づくことなんじゃないかと思う。好きと言われたいのは自分の好きなものではなく、私自身のことなのかもしれない。

 

じゃあ「好き」は私のためにあるのかといわれると、それがそうでもないんじゃないかなとも思う。

 

「なにが好きか」と「なぜ好きか」では好きなものとの主従関係が違うと私は思う。「なにが好き」かは私を説明するために道具のような気がしてならない、それを好きな私が好きというための、自分を飾るためのアクセサリーのように思える。私が主で好きなものが従。自分が何者か、社会の中で、相手の中で何者なのかを証明するために手段のような、そんな「好き」に思えてしまう。好きであることは間違っていないけど、私のための好きなのかな、と思ってしまう。友達が結婚の話をしたとき、人からの見られ方が変わるとか、人生が間違っていないことの証明になるとかそういう話をしていて、すごく怖かったのだ。結婚が社会的な行為であることも打算的にするという側面があることも、分かっている。けれど、結婚しているというアクセサリーを身に着けるために相手が存在していることに気持ち悪さを感じずにはいられなかった。これって考えすぎ?気持ち悪いのは私?とか思ってることが気持ち悪い?

 

「なぜ好きか」は好きなものが中心にあって、私はそのフォロワーだという意識があると思う。好きなものが絶対的で、そこに近い私の価値観がある、そんな関係性だともいえるんじゃないか。絶対的なモノやヒトがあって、その後ろに私がいて、過去のワタシと今の価値観が支えている、そんな主従関係がある。

でもこの関係は強そうに見えて壊れるときは一瞬なのだ。好きなものが好きな理由と違う要素を持ってしまったり、好きな理由がそのものからなくなってしまったりしたとき、愛は一気に消え失せる。自分の価値観は簡単には変わらないし、相手によって使い分けられるほど柔らかいものではないんだ。そうなったときに私たちは「もうアレはだめだ」「裏切られた」と言う。急に主従が逆転し、一方的に切り捨てるように言う。みんな自分の価値観が間違っているなんて考えたくないから、相手を否定することで自分を正当化する、アンチには元々ファンだったひとが多いのはたぶんそういうこと。みんなホントは自分がかわいい。

だから本当はちょっとだけ「なにが好き」で語る人に憧れてたりする。いつか「裏切られた」と自分が言うかもしれないことに自覚的だということが怖い。本当はそんなことを気にしないで好きだといえるのが健全なのかもしれないと思ってしまう。

 

それでも私は「なぜ好きか」をやっぱり大切にしたくて、好きなものを盲信していたい。それが好きなモノ・ヒトへの敬意の表し方だと思っていて、それ以外の方法を知らないから。好きでいることを許してほしい。「愛してるって言わせろハニー」って鈴木けいすけも歌っているもんね。

 

そしてこういう話をすると必ず「好き」を言い表すには言葉は少なすぎて、限界があると感じるのだ。誰かいい言葉を知っていたら教えてください。時価で買います。

 

私たちはずっと「好き」を求めて心地よく溺れていくのだ。