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GhostはShellを必要とするのか?-攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL/STAND ALONE COMPLEX 感想

こんにちは。くろーぷです。

前々から見ようと思っていた『攻殻機動隊』シリーズ。なんとなく難しそうで、どこから手を付けたもんだか…と思ってました。ただ最近ちょっと時間ができたのでGHOST IN THE SHELLとS.A.C.(STAND ALONE COMPLEX)を見ることができ、なんでもっと早く見なかったのか、と後悔…これ俺が大好きなサイバー系近未来SFじゃん…

例によって色んなことを考えながら感想を書いていきます。GHOST IN THE SHELLとS.A.C.しか見れていないので、そこまでで感じたこと、考察なんかを書いていきます。

それでは、よろしくお願いします。

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1.舞台設定の整理とキーテーマ

まず舞台設定の整理から。
高度な情報化が進んだ近未来、電脳化と義体によるサイボーグ化。それらを利用したサイバー犯罪を取り締まる公安9課。そしてこの世界の申し子ともいうべき少佐・草薙素子

もう手垢のついた話ではありますが、これらの設定自体、1991年という年代を考えると圧倒的ですね。2021年であればAIやクラウドコンピューティング、プログラム制御なども非常に身近な存在ではありますが、Windows95が世に出るずっと昔にインターネットによる情報の共有やサイバー犯罪、またその上位に位置する「存在」という概念(今回の感想で一番話したい内容です)まで含めた骨太な構想…あまりに先見的で言葉もありません。自分が生まれるずっと前に誕生していたことにまずは称賛を送りたいです。とてつもなく引き込まれる世界観でした。

さて、この攻殻機動隊の世界の中で、特にキーになっていると感じたものは「電脳」「記憶」「義体」そして「ゴースト」です。もちろん9課の存在や個々のキャラクターもありますが、物語の根底を支えるこれらの設定こそが何よりも重要だと考えています。
また、電脳化、情報化が進んでいるとはいえ、社会を構成する最小単位はあくまで「個人」(=自我を持つ人物一人ひとり)だということも非常に重要だと感じました。現代社会と同じように人権が尊重されていることが伺えます。
これらはGHOST IN THE SHELL、S.A.C.どちらでも中心的に語られた「存在」というテーマに深く根ざすものであり、この作品を味わうために鍵になる要素であると考えていま」。
次章から、「電脳」「記憶」「義体」「ゴースト」がどう「存在」に結びつくのか、そしてGHOST IN THE SHELLSTAND ALONE COMPLEXの感想を書いていきます。

 

 

2.攻殻機動隊の世界における「個人」と「自己」

この章で述べる「個人」という概念について、まずは定義を整理しておきましょう。今回のテーマと相性がいいこと、また私が専攻していたことを踏まえ、社会科学的な知見から引用しようと思います。

まず個人は自我を持つ一人ひとりであると言えます。その自我は、有斐閣の新版増補版社会学小辞典によると「行動や意識の主体とされ、他とは区別された社会行動の理解における重要な準拠枠のひとつ」とされています。また、「イド(本能や衝動)から発して外界の影響によって分化し、理性や分別の役割を演ずるもの」であるともされています。つまり、行動や意識の主体であり、理性を持って活動を規定する存在であるということです。また、主体であるということは客体=他者が存在するということと同義であり、他者を認識することも含まれて行きます。それと同時に、意識や行動の主体となるということは、それを実行するための判断材料(=記憶)と物理的な道具(=肉体)が必要とされることが前提として考えられます。

そのうえで攻殻機動隊の世界では、前章でも述べたように、脳は電脳化され、記憶は記録として管理され、肉体は義体として代替可能になっています。
これはどういうことか。コンピュータで例えると、ローカルに保存されている情報は外部入力でいかようにも変容できるものであり、ハードも生産可能であるということです。しかし、コンピュータと違って、人には確固たる「個」を規定する脳があります。脳は精神を生み出し、それは攻殻機動隊の世界では「ゴースト」と呼ばれています。
つまり様々な記録をもとに義体によって結果を出力するという行動を決定するのが電脳=ゴーストであり、逆に言えばゴーストのみが「行動や意識の主体」たりうるということです。ゴーストがあるからこそ「個人」として存在できるのであり、ゴーストが真の意味でアイデンティティといえます。
ちなみに現代社会では記憶は一部外部化できているものの、基本的には個人の脳に蓄積されるローカルなもので、学習や体験によって獲得されます。また肉体も変容するものであり、自己認識に非常に大きな影響を与えています。つまり私たちは「記憶」「肉体」「精神」によって「自己」を認識していますが、攻殻機動隊の世界では「記憶」「肉体」は代替可能であるがゆえに「精神=(電脳による)ゴースト」のみが「自己」を自己たらしめる要素である、ということもできます。

しかし、電脳化と義体化を完全に行っている素子でさえ、GHOST IN THE SHELL人形使いと記憶を並列化した際、また少女の義体になった際に自己認識の変容が発生しています(自らの意思で9課を脱退し、どこかへ向かうラストシーンはその象徴)。つまり、ゴーストが記録と義体を制御する主体であるのも関わらず、生身の人間同様、記録と義体の変化によってゴーストも変容しうるということが示唆されているのです。これは、外的な記録の編纂や義体の変化などにより、ゴーストそのもの=自己が変容しうるということです。ゴーストのみが自己認識のよりどころであるにも関わらず、それは外部的に変容可能であり、あの世界ではハッキングや義体発注などで半ば強制的に行うことさえできてしまいます。そうして意図的に作られたゴーストを自分であるといえるのでしょうか。またそのような個人が形成する社会とは何なのでしょうか。その解の一つが人形使いであり、スタンドアローンコンプレックスという社会行動なのではないか、ということが劇中で示されたのだと私は考えています。

 

 

3.人形使いが拡大させる「個」

GHOST IN THE SHELLに登場した人形使い。数多の人間にゴーストハックをしかける凄腕のハッカーであり、政治的亡命を要求する自称「生命」です(実際は6課の作り出したAIだったのですが)。清掃員の記憶を改竄する、素子と同じタイプの義体に侵入するなど、そのハッキング能力を活かして正体を明かさずに活動します。彼はAIとして様々な記録を蓄積するうちに自我を獲得していきます。ここはS.A.C.のタチコマも同様ですね。作中にAIが感情や自我を獲得すること、またそのシンギュラリティについて問題提起がされていることがわかります。
作中で6課は人形使いを制御できなくなり、ネットの世界に放たれてしまいます。そして彼は自らをインターネットによって生み出された生命を自称します。しかしこの人形使いはもとはAIであり、9課に押収された義体に入る前は「肉体」を持ちませんでした。また、記録もさまざまな場所から吸収したものです。それでもおぼろげにゴーストがあるということが作中で語られます。つまり、後天的にでも肉体と記憶に相当するものを獲得できれば、それで精神を成立させうる、つまりゴーストが生まれ「個人」が成立するのです。作中では行われませんでしたが、人形使いのゴーストの獲得経緯とハッキング能力をもってすれば、「個」を大量に生産することが可能なのではないかと私は見ながら考えました。そう、ちょうどWindowsをOSとしてインストールしたPCが大量こに生産されるように。ここで「個」という概念は個別のハードに存在するのではなく、巨大な一つの概念としての、複製元となる「個」が理論上成立しています。
一方、生物の原初的な部分に立ち返ると、種の繁栄とそれを達成するための生殖活動は極めて基本的なものです。しかし人形使いはAIであるがゆえにそれができません。実際、人形使い自身も「コピーはただのコピー」「一つのきっかけで滅びうる」「私自身では生殖をおこなえない」と語っています。そこで素子という存在と並列化することで生殖可能な肉体を手に入れることとなります。作中では素子の例しか現れませんでしたが、もしこの裏で同じことを行っていたらどうでしょう。素子と同じように人形使いの自我を持った個人が大量にうまれ(=人形使いという個が同時にいくつも存在する)、彼らが生殖をおこなった場合、一人の人間が行える生殖活動のキャパシティを大きく上回ります。これは生命の一つの大きな可能性ではないか、と思われてなりません。こうして拡大する個とその再生産活動。少し拡大解釈かもしれませんが、それは画一的な社会の始まりを意味するのかもしれません。人形使いを通して描かれた肥大化する個というテーマは、電脳・情報化社会の一つのリスクを暗示しているといえるのではないでしょうか。

 

 

3.電脳化された集団心理-Stand Alone Complex

一方で、S.A.C.で登場した笑い男人形使いとは全く一線を画する存在であると考えます。
彼は作中の描写を見るに、ハッキング能力は人形使いと同等であるという風に考えられます。バトーの視界を一瞬で盗んだり、9課を逆に利用したりと、高い技術力を有していることがわかります。そして彼の目的は電脳硬化症に対する正しい治療法の普及と不正の暴露および是正という社会正義にかなった、非常に「ゴースト」らしいものでした。
実際に、彼がゴーストハッキングをしたのは一部の交渉や匿名性の担保のためのアイコン表示が主であり、人形使いのような乱用はしていません。能力的には恐らくはできたのでしょうが、理想に生きた彼は他者に行動を強制する「個人の増幅」は行いませんでした。彼には確固たるゴーストがあり、動機からして個人の増幅に価値はありませんでした。その意味で笑い男人形使いの対になるような存在です。

しかし、笑い男の意図に反して「個の概念化」が行われることになります。それがStand Alone Complexであり、模倣犯の出現です。
笑い男は作中で一種のネットミームのような扱いを受けていました。街には笑い男のロゴが溢れ、ネットの中では笑い男を名乗る人間が多数現れる。誰もが確認したことのない笑い男を様々な角度から解釈し、ある種の集合知のような形で具象化、電脳世界の中で笑い男という「個を概念化」していきました。このようなネットミームを基にした虚像の成立は、現代でもQアノンを始め社会問題となっています。こうして人々が同じ「笑い男」を演じ続けるStand Alone Complexが生まれることとなります。正反対な人形使い笑い男が、違う道のりでもってある種同じ概念化を進むという、非常に示唆的な内容であると感じました。

 

4.情報化された世界での「存在」について

こうして見渡した際に、やはり攻殻機動隊の世界では「存在」という概念について深く考えさせられるシーンが多数ありました。「記憶」「記録」「肉体」「義体」「精神」「ゴースト」はそれぞれ相補的なものであり、電脳化が進みゆく過渡期の世界での揺らぎとなっていました。
同じく情報化社会を扱った作品『Serial Experiments Lain』では、記憶をすべてデータ化することでワイヤード(Lainの世界の中でのインターネットに似た疑似空間)に生きることができ、それは肉体(攻殻機動隊のShell)という枷を外し、さらなる自由を享受でき、それこそが人間の解放であるという思想が示唆されました。
攻殻機動隊世界線で技術革新がつづいていった場合、どのように人間は変化していくのでしょうか。トグサのように機関に勤務しながらもほぼ生身の人間もいれば、素子やバトーのようにほぼ電脳化と義体化を行った人間もいます。この電脳化と義体化は、肉体の強化や記憶のコントロールなど、非常に便利なものであると同時に、メンテナンスを必要としたり、その記憶を属する組織に還元しなければならないというデメリットも存在することがGHOST IN THE SHELLでは示されています。
また同時に素子すら悩んでいたような、電脳化と義体化によるアイデンティティの喪失という、存在自認の問題も同時に孕んでしまいます。他者との記憶の並列化は便利な反面、自分独自の記憶を失うことを示唆しています。また、自らの身体を意のままに変化させられる一方で、どこかに同じようなオーダーをして似たような誰かがいる可能性も否定できません。実際に自分がその世界にいたとして、記憶、身体、そしてゴーストが本当に自分のものであると言い切れるでしょうか。記憶を外部から変換された記憶を自分ではもつことができないとして、義体は本当に自ら望んだものなのか。そうやって自分に備わっている記録と義体から作られるゴーストが、本当に自分のゴーストであると自信をもって断言できるでしょうか。
こうして考えると高度情報化社会の光と闇を垣間見ることができると思います。光は生物種の限界を超える圧倒的なものである一方、闇は「存在」そのものにかかわる重大な問題であると言えます。この答えのない問いを正面から考えるという意味で、攻殻機動隊は非常に興味深い作品でした。

 

ここまで様々考えながら書いてきましたが、作品全体を通して、設定を存分に生かしたストーリーの構築、それを伝える映像美と音楽と演技、そして示唆に富んだテーマの数々…。非常にハイレベルで思わずうなってしまう、非常に面白い作品でした。何といっても30年前にこの世界観を作り上げた士郎先生の圧倒的な力量には感服です。脳のシワが増えるような感覚を覚えながらみることができ、とても楽しめました。SFとして、警察ものとして、絶対的な評価を受けるこの2作品は、紛れもなく私の生涯触れてきたコンテンツの中でもトップに入ります。これからも時間をみつけ、少しずつ紐解きながら見ていこう、そう私のゴーストが囁いています。