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【感想】エヴァンゲリオンが見せた「救い」の意味

こんにちは、くろーぷです。

 

新世紀エヴァンゲリオン』を見終わりました。
新世紀エヴァンゲリオン(26話分)』『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』のいわゆる旧作を3日間で一気見、とにかく満足度が高かったです。
正直ここまで面白いとは思わず…オタクなら履修しなくてはと思っていたものの、ここまでズルズル来てしまいました。が、人生で見た映像作品では3本の指には入る面白さで、大好きな考察をしまくれるストーリー構成、魅力的なキャラクター、そしてサブカル史に残した足跡など、本当に刺激的で素晴らしかったです。

もう語りつくされたことではあるとは思いますが、エヴァの考察を書いていきます。解釈の違いや公式設定の読み間違いなど、さまざまあると思いますがそれも含め読んでいただけると嬉しいです。あくまで「公開時期に生まれたオタクが現代のフィルター、環境、知識を通してどうエヴァを見たか」について言及できればと思います。
「新世紀エヴァンゲリオン」の画像検索結果
それでは、よろしくお願いいたします。

(当然ネタバレを含みますが、こんなところまで読みに来る人は履修済みだと思うのでわざわざ注意書きする必要ないと思いますが一応…) 

 

1.「人類補完計画」について

エヴァの核心、そして物語が描こうとしたテーマ「人類補完計画」。エヴァの終着点であり、物語の中心、そして最も議論を呼ぶ部分です。
その目的は完全な単一個体になること。それは肉体的にではなく、精神として。シンジの中のいるシンジが嫌いなシンジ自身を他者の記憶(他者の中にいるシンジ)で補い、完璧な(=誰からも好かれる)シンジになる、というような、お互いの嫌なところを補い合うための儀式が「人類補完計画」でした。
SFは得てしてバトルや科学技術の裏に壮大なテーマがあるわけですが、エヴァもその例に漏れず、行きつく先は「人間の弱い心をどう克服するか?」でした。エヴァが聖書を拠点としているのもこのテーマを扱うため。宗教とは様々な解釈がありますが、一つの側面として「救済」があります。神に救われる、生まれながらの罪を浄化する、または許される、という要素です。神が救ってくれる、神によって自らの存在が許される、ということにある種収斂されます。
しかし、現代社会において、神という存在はどれだけ信じられ、人々を「救済」しているのでしょうか。特にこと日本において、一般市民にとって宗教は、非日常的なハレとケの日に意味づけをするための概念として存在(冠婚葬祭は宗教的儀礼で執り行われます)し、そこに救いを求めるということは存在しません。人間は救いを神や宗教という絶対的に安定した対象に求めることができなくなりました。

その代わりに現代社会で生まれた救いの対象が金、名誉でした。

資本主義は言えばこのうちの金と名誉を救いの対象とし、社会生活にビルトインしたモデルである、とも言えます。しかし金も名誉も人間自身が作為的に生み出した尺度でしかありません。金や名誉は簡単に失われます。神はあんなにも絶対的であったのに。金と名誉を軸に据えた救いのモデルは宗教に比べ、あまりに脆弱でした。金持ちは全員幸せか?権力者になることは絶対的な成功か?答えはノーでしょう。この2つは自分自身の能力や責任と密接にかかわっており、外部化することが困難です。神はこれを外部化し、自分救われるという超全的な態度でいられます。つまり自責が金や名誉という尺度より絶対的に少ない。むしろその自責を正当化するのものが宗教の役割である、とすら言えます。しかし神は存在しない。

ではどこに救いを求めるか?エヴァが示した答えが「他者からの愛」でした。

金と名誉は自負心という自らを愛することには有効ですが、それだけでは足りないのが人の心です。だから外部にも愛を求めます。それが「他者からの愛」。しかしこれもひどく不安定なものです。本当に愛してくれているのか?そもそも愛はあるのか?劇中では、みな疑心暗鬼でした。シンジは葛藤し、レイは目覚め、アスカは自分だけを愛することができず、他者からの愛を最終的に求めてしまいます。
この「他者からの愛」という不安定な救いの要素を固定化し、内在化させるために「人類補完計画」を行います。

 

2.「人類補完計画」を踏まえてのTV版のエンディング

TV版のエンディングは賛否両論あります。そりゃあのクオリティ、難解さ、これまでの流れをぶった切るような展開…。指摘される要素は多くあります。しかし、「人類補完計画」の一つの終着点としては非常に丁寧な解説があります。それぞれのキャラクターがいかに「他者の愛に飢えているか」。そしてその愛も「本当の愛かどうかわからない」という不安。だから自分を愛せない=救済されない。まずこの大前提が25話で示されます。
ではそれをどう克服するか、その具体例が26話の「すべてのチルドレンに、おめでとう」というラストです。シンジは「他者からの愛」があるから「自分を愛してもいい」という結論に至ります。シンジの中の学園モノの情景は「エヴァに乗らない世界線」ではなく「エヴァという外的な要因なしに自分を愛してくれる世界線=他者から無条件に愛される世界」でした。これが「人類補完計画」を完遂した「救済」なのです。
もはや肉体という生命の器はなく、精神世界に「生きて」います。
人類補完計画」は人を殺すことでも、世界を滅ぼすことでもなく、救済されることを目指した。それがこのエンドが示す意味であると考えます。

 

3.「人類補完計画」を踏まえての『Air/まごころを、君に』のエンディング

TV版に対して『Air/まごころを、君に』は「人類補完計画」が達成されなかった世界です。
どのような経緯でサードインパクトが起こるのか、その結果何があって「人類補完計画」が完遂されるのか、きちんと映像で表現されます。
ゼーレが目指した「人類補完計画」とゲンドウが目指した「人類補完計画」は手順の違いはあれど、終着点は同じでした。TV版と同じく、相互補完的な完全な単一個体を生み出すこと、これを夢見ていました。
ゼーレは初号機を触媒として、ゲンドウはレイを触媒としてサードインパクトを引き起こそうとします。ゲンドウの狙いはユイと再会するため。そのうえで補完されることで「救い」を目指します。
しかしゲンドウはリリスを目の前にしてレイに拒絶されます。私はあなたの人形ではない、と。

ここで少し遠回りをしますが、シンジ、アスカ、レイのそれぞれの「他者からの愛」のと捉え方を振り返ります。
まずシンジですが、シンジは「自分を認められないから、エヴァに乗ることで自分を肯定しようとした」「その確証のために他者から愛されること」を望みました。クラスメイトにあっさりエヴァの搭乗員であることを教えることも、拒絶していたエヴァへの搭乗を最終的には選ぶこと。それは他でもなく「他者から認められることで自分を愛せるから」でした。
アスカはその逆。アスカはエヴァに乗ることにプライドをかけていました。それは「エヴァに乗っている自分を愛せなければ誰も自分を認めてくれない」と考えたからです。シンジが自己否定を否定してくれる他者を求めたのとは反対に、アスカは自負や自己愛を肯定し、それを通して愛してくれる他者を求めました。だからリョウジ、そして母親という自分が尊敬できる対象からの言葉を欲しました。シンジやレイという自分より下(に見える)存在からの言葉には意味はありません。それは彼女のプライドを傷つけるだけです。…シンジはアスカから尊敬される前に繰り返し彼女に接するという最悪な方法をとってしまったわけですが。
そしてレイは誰かを愛すること、愛されることを必要としない存在として描かれました。唯一ゲンドウには(プログラムされたであろう)信愛を持っていましたが、話が進むにつれ、シンジと繰り返し接触することで愛を求めることを覚えていきます。愛への目覚め。これがレイです。
三人がそれぞれ違う愛を求めたものの、必要だったのは「他者からの愛」であることに変わりはありませんでした。

話を戻します。リリスを前に、自らの中に見つけた「シンジへの愛」を叶えるためリリスに入り込んでいきます。ゲンドウは結局ユイを出現させるには至らず、みずから組み込んだレイの「心」に刺される形になってしまいます。しかし、それすらも受け入れ、サードインパクトに期待するゲンドウ…。ユイさんめっちゃ好きなんだな…一周回ってユイさんが魅力的過ぎてることがすべての発端な気もしてくるぜ…。
そして不完全な形=初号機を使ってのサードインパクト、そして「人類補完計画」が遂行されていきます。実行はゼーレの思惑通りに進み、みな敬愛する人物を一緒になるという「幸せなLCL」になり「救済」されていきます。このシーンでマヤはリツコを、マコトはミサトのイメージを持ち、浄化されていきます。リツコとミサトはそれぞれゲンドウとリョウジという想い人がいたにも関わらず、です。これは「補完」された後は本人の思い描く世界が実現する、個々人の中にだけ存在するパラレルワールドの出現を意味しているように感じました。
そして、最後にはシンジも「救済」されるはずが、ここが不完全な「人類補完計画」の抜け穴でした。TV版では「補完」されることを選びますが、『まごころを、君に』のシンジは過去の記憶からこれを拒否、結果としてシンジとアスカだけがLCLにならず、二人以外は消え去った世界に戻ります。
前述のようにシンジはエヴァに乗ることで自分を認めてくれる、ということに執着しました。そして実際にゲンドウ含め、みなそれを受け入れてくれていました。唯一人、アスカだけを除いては。アスカはシンジが助けても認めてくれることはなく、むしろそのプライドから突き放してきました。だからこそ、最後にアスカは選ばれました。シンジが「人類補完計画」を拒否した現実は、アスカに受け入れてもらう、愛してもらう世界でした。本当は殺したいほどに侮辱してきたアスカの首を絞めるも、頬に手を当てられます。絶対的な力関係もなく、エヴァもない世界でもアスカが自分を愛してくれる、その希望を感じ取ったシンジは手を緩めます。「補完」されなくても、現実でも自分を認められる、そう思った次の瞬間、アスカは言います。

「気持ち悪い」

「新世紀エヴァンゲリオン まごころを君に」の画像検索結果

そう、間違いなく「人類補完計画」は失敗に終わりました。シンジの望んだアスカではありませんでした。しかし、シンジが積極的に選んだ「現実のアスカ」ではあったのです。現実に救済はない。そうまざまざと見せつけられたシーンでエヴァンゲリオンは終劇を迎えます。

 

4.「気持ち悪い」というエンディングから考える、この映画のテーマと現代からの視座

この作品の最期を「気持ち悪い」としたこと、それがこの映画のテーマそのものだったのではと考えます。セカンドインパクトのさなか、映像が一時実写へと変わります。その中でシンジの「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」という問いにレイが「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」と答える、そんなシーンが半ば唐突に入ります。しかも一般市民というよりは、明らかにオタクの映像を用いて。
これはそのまま「エヴァンゲリオンは夢(アニメでしかない)で、現実ではない」という庵野監督からのメッセージでしょう。作品に逃げるのではなく、あくまで現実と向き合えという、ある種の強烈な皮肉です。上映当時は実際に殺害予告まがいの文章なども送られてきたそうですが、まさにそういうことだよ、というエンディングとメッセージです。いつまでも夢の中にはいられない、現実と向き合え、それは「気持ち悪い」といわれる現実化も知れない、だが、それでも直視して歯を食いしばって生きていかなければならない世界だ。夢に逃げるな、現実で愛を捕まえろ、そう伝えたいという意図でしょう。

そして現代の視座からこのシーンを見るとまた違った感想を持つことになると思います。現代のサブカルチャーはどんどん現実との境界を肉薄し、ある意味ではもう一つの現実のような様相を呈しています。アニメは高精細で実写に近いような表現も可能ですし、声優は会いに行って話したり写真を撮ったりできる存在になりましたし。制作現場の生の声はSNSで見ることだってできます。つまり映画公開当時よりもぐっと「非現実が現実に迫っている」のです。ファン同士のコミュニケーションも容易になり、その気になれば「好きなことで生きていく」ことも可能です。
しかし、オタクの浮世離れは進んだでしょうか?答えはノー、むしろ「それはそれ、これはこれ」で割り切っているオタクが増えているように思います。夢と現実という区分ではなく、どちらも現実であるという考え方です。もしくは2つの自分を使い分ける、と言ってもよいでしょう。学校や会社、家庭、友人恋人の前での自分と、オタクを楽しむ自分はあくまで同一であり、不可分かつ可分な自分自身であると言えます。聖地巡礼も裏アカ、リアアカも同じ土俵です。おそらく現代であの実写パートをやったとしても、叩かれるのではなくあっさり受け入れられてしまうと思います。そんなの当たり前だろ、と。サブカルチャーメインカルチャーの中の一部として大きなうねりの中に取り込まれていきます。夢に逃げるという選択肢ではなく、現実を増やすという手段を身に着けるに至りました。
そうすると変化するのは「救い」です。公開当時はこのような夢に逃げる、という行為自体をタブー視しましたが、それを反転させ現実とすることで飲み込んだのが現代。とするならばエヴァで示された「他者からの愛」という救済手段すら断たれてしまうことになりかねないだろうか。今まで夢であったものを現実として内在化することで、現実を見ろという叱責を交わすことができる、という解釈です。庵野が示した「他者からの愛」という価値基準にすがらずとも、現実のなかで充足されていく、それこそが現代であると言えそうです。結婚や家庭を持つことだけが幸せの形ではない、という認識は広くなりつつあります。未婚率が高まっているのは経済的や社会の様々な要因が複雑に絡まっていますが、幸せの定義を自分で構築し、それが広範に認められる社会風土が生まれつつある、ということも大きく影響しているように思います。もちろん愛はこれからも普遍的な価値観として残り続けます。しかし、その対象をどうするか、という問いが生まれていることも事実です。性的志向自己実現、他者実現、社会貢献など方向性の拡大が現代社会の1つの潮流です。オタクを否定しようとしたエヴァの幕引きも、「現実」の一部として吸収されていきます。エヴァを愛し、熱狂するのも一つの現実だ、と達観しつつ、狂気に溺れる自分を楽しむ、これこそが今の社会のオタク像といえるでしょう。

だから今ならアスカの「気持ち悪い」は否定されることなく、すんなりと受け入れられてしまうでしょう。その「気持ち悪い」は、作品という「夢の中」ではなく「現実」なのだから。

 

5.最後に

長々と感想を書いてきましたが、本当に楽しめる作品でした。理不尽にエヴァに乗せられるのも、エヴァが最初に動かないのも、日常パートとの落差も、複雑な設定も、意味深なセリフ回しも非常に魅力的でした。その証左に公開から四半世紀経ってもこんなブログ書いてますし…。
アフターエヴァのオタクの世界線を生きてきたので、新しい視座でこれからの作品を見れるのはすごく楽しみです。新劇の最終章もどうなるか、すごくワクワクします。個人的には新劇では「人類補完計画」を否定されるのではないかなと考えていますが、、

今回はこんな感じで。