アンサーソングは届かない

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曖昧に「推す」を使うのはやめよう

こんにちは。くろーぷです。

「推す」って言葉、使いますよね。でも「推す」って何をすることなんでしょうか。色々考えたんですけど、これ結構フクザツ。そこでこの記事では僕の考える「推す」ということについて書いてみます。あくまでも個人的な解釈なので、正しいとか間違っているとか、そういう話ではなく「そういうものあるのか~」くらいに読んでもらえると嬉しいです。

 

とりあえず結論から言うと「敬意を持って応援すること」だと思います。

ただ、じゃあなんで敬意を持つのか、応援するのか、ここが大切だと思い、以下はその根拠なんかについて考察してみます。

それではいきましょう。

 

1.「推す」ってなんだろう

まずは国語の時間です。文法です。

「推す」とは品詞で言うと動詞です。そして動詞の中でも動作動詞です。「推す」という行為だ、ということです。

 

ちなみにですが、「推し」は名詞なのでちょっと意味が違うと思ってます。それについては後半に解説します。

一般に「推す」とは「おすすめする」みたいな意味で使われることが多いです。語源的にも推薦するというところからきてるので当たり前ですね。けれど「誰々(声優、キャラクター、アイドル)推してるんだ」みたいな文脈の時は当然おすすめするという意味では使ってません。ですから今回はおすすめするという意味以外での「推す」という動詞について考えていきます。

結論から言うと上にも書きましたように「敬意を持って応援すること」だと考えています。ポイントは「敬意」です。

みなさん、自分の推している人を思い出してみてください。なぜその人を推しているんですか?どこが好きですか?どんな時に素敵だな、と感じますか?きっとそれぞれポイントがあるはずです。ここからが大切なので上の質問にしっかり答えを持って続きを読んでください。

いいですね?大丈夫ですね?ちゃんと答え出てますよね?信じますよ?

 

では答えの出ている皆さん、次の質問です。なぜその答えになったんですか?なぜその人のそういうところが好きなんですか?なんでその瞬間に素敵だと思ったんですか?これも考えてみてください。しっかり、ですよ。声が好きならなんでその声質が好きなんですか?ダンスに魅力を感じるならなぜダンスがうまいことがいいな、と感じるんでしょう?顔が好きならなんでその顔が好きなんですか?なんで、なんでですか?これもしっかり考えてください。

ちゃんと考えましたか?答えとして自分が納得できていますか?いいですね?そしたら次に進みましょう。(めんどくさい記事ですみません…。)

 

 

お疲れ様でした。推しについて考える時間っていいものですよね。こういう素直な気持ちって大切にしたいものです。

さて、皆さんが考えてくださった答えですが、人それぞれ違っていると思います。それは当然のことなのですが、それでもきっと以下要素と何かしら絡んでると思います。

その要素とは

・自分にはないものを持っている

・自分のコンプレックスとは真逆、推しのいいところは自分のコンプレックスに感じるところだ(自分は緊張しいだから、推しの物怖じしないところが好き、みたいな)

・価値観に共感できる

どうでしょう。もちろんぴったりというわけではないでしょうが、当たらずも遠からずかなと思います。

では、これだとどうなのかということですが、これが「敬意」を推しに対して持つ根本的な理由なのだと思います。「憧れ」と表現してもいいかもしれません。自分ができないこと、苦手なことを推しは難なくやっている、または克服しようと一生懸命努力しているとか、コンテンツや仕事への向き合い方が素敵だとか共感できるとか、こういうのって尊敬につながると思うんですよね。だから推しのことは尊敬するし、敬意を払う対象になる。

これは「好き」とはちょっと違います。「尊敬している人は誰ですか?」と聞かれて答える人が、必ずしも好きな人ではないですよね。それと同じです。そういう姿を見ていて、それが素敵だなと感じ、その先にある光景を見たいと思い応援すること、これこそが「推す」ということなのではないかなと思います。

そういう関係性に基づく応援行為こそが「推す」である、そう感じます。だから「推す」っていろいろな方法があると思うんですよね。イベントに誰よりも行く、フラスタを立てる、お手紙を書く、メールを送る、グッズを買う…気持ちさえあれば、これらは立ちどころにすべて「推す」ことになると思います。

 

2.「推す」と「推し」は何が違うのだろう

ここからは「推す」と「推し」の違いについてです。先ほど「推す」とは動詞だと書きました。同じように品詞の観点から考えると「推し」は名詞です。「○○推しです」とか「自分の推しが~」みたいな使い方しますよね。このときの「推し」はさっきの「推す」ことの対象ではない、と考えています。

「推し」には先ほどの敬意や憧れという意味は含まれているもの、もっと軽い意味もあると思います。単純に気に入ってるとか、好きとか、そういう感情を持っている人やものを「推し」と表現できます。ここが「推し」と「推す」の一番大きな違いかなと思います。

好きという感情には必ずしも敬意や憧れといった論理的な感情は含まれず、もっと本能的です。だから「推す」にはなかった恋愛感情や「俺が頑張ってもっと売れさせてやる」みたいな相手と同じ目線、またはそれより高いところからの視点も「推し」に対しては持っていいてもおかしくはないのかもしれないなと思います。そりゃそうですよね、もともと推薦する、推進するみたいな主体的な言葉なんですから。

よく言われるガチ恋とかも推しへの感情の一つなんじゃないですかね。だから個人的には恋愛感情や認知されたいみたいな承認欲求「推す」という行為の根源的な感情ではないものの、「推し」への感情としては成立すると思います。そして「推す」ことと「推し」がいることは同時に成立します。人間全員が全員誠実さなんかに裏付けされて行動できないと思いますし、よこしまな気持ちがあっても別におかしくはないと思います。でも逆に言えばそういう不誠実な気持ちで「推し」を作っても、そのあとから「推す」ようになっても全然おかしくないと思います。それだけ相手の素敵な部分を見つけられたってことですから。…というかどんな人も最初推しができて、そこから推し始めますよね。深く知っていくことで「推し」から「推す」対象へと変化する、という感じがします。

この根本にある感情の違いが「推し」と「推す」の一番の違いではないかなと思います。

 

 

以上が僕の考える「推す」とはどういうことか、そして「推し」との違いは何か、です。要するにベクトルが推しに向いているか自分に向いているか、みたいな話です。少しでもご参考になれば幸いです。それと「俺は違うと思う」とか「こういう解釈もあるんじゃない?」みたいなものがあればぜひお聞かせくださいね。

 

あなたは今、推しを推していますか?