アンサーソングは届かない

マンチェスターシティとRe:ステージ!を愛するブログ 考察とかを書いてます

WUG!のこととアニメのこと

 こんにちは。くろーぷです。

 ブログの更新が全然できなくてすみません、と思いましたが、そもそも誰も待ってないですよね。

 まぁそんなことはどうでもよくて…。今回は僕の心の作品であるところの「Wake Up, Girls!(WUG!)」について書いていこうと思います。このブログの記事を読んでいる人はすでにWUG!の内容や現状について知っているでしょうから、そこは省略します。知らない人は検索するなりしてから読んでください。最終的に「何言ってんだコイツ」というところまで話が飛躍すると思いますが、それならそれでコメントなどいただければと思います。前置きはこれくらいにして、つらつらと書いていきましょう。

 一応断っておくと、この記事の内容は僕自身の感想であり、どこかに媚びを売ったりというものではございません。また、論理的に破綻している可能性もありますが、大目に見て頂ければと思います。

1.僕にとってWUG!とは何だったのか

 僕がWUG!と出会ったのは2013年の秋、当時僕は高校1年生でした。仲の良かった友人が薦めてくれたのがきっかけでした。当時の僕はオタクといっても1シーズンにアニメを1本か2本見る程度で、声優には興味もありませんでしたし、山本監督はじめスタッフも誰一人知りませんでした。それでも僕はWUG!にただならぬ何かを感じたのを覚えています。

 それは、今振り返るとWUG!に秘められた熱量だったのだと思います。今のポータルサイトの2つ前、あの簡素なあの公式サイトにアクセスして調べていくうちにどんどん引き込まれていきました。山本寛という監督が震災の復興支援のために始めたプロジェクトであること、オーディションで選ばれた新人声優を起用するという挑戦的なコンテンツであること。何もかもが僕には新鮮で、毎日公式サイトが更新されていないかチェックしていました。おそらくWUG!に関わることで東北に何かできないかと考えていたのでしょう。林田藍里ちゃん永野愛理さんに魅力を感じたのもその頃でした。藍里ちゃんの気弱ながら芯があって、伸びしろがあるというキャラクター、そしてその後アニメで見られるであろう成長と震災の復興を重ねていました。

 その後『七人のアイドル』の劇場チケットを買ったり、ステージの天使をプレイしたり、炎の七番勝負「ヤマカンでてこいやー!」に行って初めて監督とメンバーを見たりと、アニメ放送前のWUG!が大きく飛び立つ前の助走を本当に楽しんでいました。

 そしていよいよ公開された映画、放送されたテレビシリーズを食い入るように観賞しました。お世辞にもうまいとは言えない演技や不安定な作画すらWUG!を構成する要素で、何もかもが輝いていました。『七人のアイドル』の始動からテレビシリーズの着地まで、今まで味わったことのない興奮と感動がそこにはありました。

 その後行われたステラボウルの「イベント、やらせてください!」では精いっぱいパフォーマンスをするリアルWUG!ちゃんの姿があり、今度は画面の中にいた女の子たちとっそっくりな彼女達が目の前で歌い、物語を紡いでいくのだと確信しました。山本監督の「2次元も3次元も、境目がわからなくなって、虚実混合になればいい」という言葉の意味を噛みしめました。

 1stツアー「素人臭くてごめんね!」では成長したメンバーの姿があり、「Wake Up, Girls!Festa.2014 Winter ~Wake Up, Girls!VS I-1club~」ではI-1clubとの差を見せつけられる形で、彼女たちのさらなる成長を願いました。高校生の僕は金銭的に多くを提供できなかったものの、その熱量と世界観に引き付けられたまま、いつまでも応援しようと強く思いました。

 その後は大学受験があり、2ndツアーに行ったのを最後にしばらくWUG!からは離れました。受験が終わり見た『青春の影』『Beyond the Bottom』には変わらず戦い続ける少女たちの姿、そして裏にある山本監督をはじめとするスタッフの滾るような熱を感じました。Wake Up, Girls!シリーズを通して語られるうまくいかないもどかしさ、暗い社会の一面、それでもあきらめない彼女たちの必死の抵抗、そして勝ち取ったものの美しさ…何もかもがそこに詰まっていて、それが僕の心を強く揺さぶっていたのでした。

 僕にとって『Wake Up, Girls!』とはただの作品にはとどまりません。物語から紡がれるきれいなだけではない現実も、それに抗う人々の姿も、何もかもが僕にはかけがえのないものになっていました。それはひとえにWUG!を通して表現された熱量が、苦しさが、美しさがそうさせたのです。震災からの復興というテーマをアニメと物語に昇華させたその手法に、魂の込められたアニメーションとWake Up, Girls!のメンバーのパフォーマンスに感動したのです。

 そこにはまぎれもなく、アニメーションという枠で表現された一つの世界とメッセージが”あった”のです。

2.作品は誰の物か

 ここまでで書いてきたように、僕がWUG!を最も評価していたのはその世界観であり、メッセージでした。ただのキャラクターがかわいいだけのアニメ、声優やスタッフで注目を集めるだけのアニメ、人気はあれど何かがあるわけではない作品…これらと一線を画す、確かな芯がWUG!にはあったのです。お金や人気では測れない、作品としての核があったのです。

 そしてそれは間違いなく山本監督をはじめとするスタッフの方々のものでした。WUG!の生命はその皆さんの熱い気持ちであり、WUG!を通して伝えなければならない、表現しなければならないメッセージです。

 その意味で、『Wake Up, Girls!』という作品はまぎれもなく山本監督をはじめとする「旧章のスタッフ」の物です。僕は本当の意味で『Wake Up, Girls!』のメッセージを理解してはいないかもしれません。しかし、旧章のスタッフの熱い気持ちだけは理解しているできているのではないかと思っています。その意味ではこの作品が間違いなく旧章のスタッフのものであると断言できます。オタクの物でも、出資元のものでもありません。それは絶対あると思います。しかし、この解釈のズレがあまりにも語られていないのではないかと思います。そしてその結果、今のWUG! の状況及びアニメ業界全体の状況が生まれてしまっているのではないかと思うのです。

 

 アニメを消化する顧客は誰でしょうか。おそらく多くの人はオタクであると考えるでしょう。では、アニメはオタクのだけの物でしょうか。違いますよね。オタク以外の作品に触れた人も当然含まれるでしょう。ではオタクは本当にそのことを考えているでしょうか。僕にはそうとは思えません。もちろん、オタクではない人と共有しようという人がいるのも知っています。しかしそういった人は一部でしかないと感じます。「アニメはオタクのもの」と勘違いしている人が多くいると感じます。オタクであることを趣味の範疇ではなくアイデンティティとし、そのアイデンティティを守るために排除をしているのではないか感じます。その手段としてアニメが使われている。僕にはそう感じます。ここに大きな問題があると感じます。この「アニメはオタクのもの」という勘違いこそが色々なことの歪を生み出しているように思われるのです。

 オタクが市民権を得たといわれて久しいです。かくいう僕もオタクであることが個性であるとされる世代です。そしてオタクであることが容易な世代でもあります。なぜならアニメを見て「一般人と違う」ことをアピールすればいいだけからです。このお手軽さは非常に便利で、周りの人間と違うということを容易に演出できますし、オタク同士では簡単に仲間意識を持つことができます。SNSはそれをさらに手軽なものにします。その結果「アニメはオタクのもの」というオタクの身勝手な考えが構築されていきます。この勝手な勘違いとアニメのアイデンティティを表現するための手段とすることが諸悪の根源であると考えます。このオタクの病ともいうべき振る舞いは今まで看過されてきすぎました。その結果起こったことがクリエイター軽視の現状です。

 上に書いた病は新たなエコシステムを生み出すことになりました。オタクを相手にしたアニメ、コンテンツ産業の確立です。オタクは趣味であると同時に自らのアイデンティティを保持するためにアニメを消化していきます。そうなればアニメはオタクの求めるものに近づいていきます。こうしてアニメはオタクの消費が最も重視されることになっていきます。しかし、その結果アニメーションという技法を使って表現をしようというクリエイターたちが割を食うことになっていきます。アニメはあくまでアニメーションという表現技法であり、オタクのための制作物ではありません。このことが余りにもないがしろにされています。例えばフィギュアはオタクのための制作物でしょうか。それは違います。オタク向けのもの以外にもさまざまに作られています。博物館の展示などにも使われており、一般的な表現手段です。しかし、アニメに関してはあまりにも「オタクのため」に偏っています。これもオタクの勘違いを助長することにつながっています。アニメはアニメーションという表現技法であり、そこでは何を表現しても自由なのです。しかしオタクが自分たちの物である勘違いをすることで、オタクの認めるものの範疇から外れたものは認められません。オタクの「気持ち悪い」と思われる尺度に合わせなければアニメとして認められにくくなっているのです。こうしてクリエイターは苦しむのです。最近ではオタクという消費者、お客様のお眼鏡にかなうことが第一に求められているように僕には感じられます。そして多くのオタクを取り込むため、分かりやすい、記号的なアニメが多く作られていると感じます。高度な内容よりも単純にキャラクターが魅力的で、ストーリーは簡便なほうが今のオタクには受けが良いと感じます。一時期「女の子動物園」というキャラクター重視の毒のないアニメを揶揄する言葉が使われましたが、それはこの最たる例であると感じます。このようなオタクの勘違いとアニメのそれに合わせた制作物が、アニメ業界全体を支配しているように感じます。

 

 最近ではそこに声優というファクターも加わってきています。声優が歌って踊り、作品の一部となるのが当たり前になっていいます。それにより声優がアニメに対して及ぼす影響が増しています。ここで声優という市場が作られ、そこでオタクの消費が行われます。そうして声優の持つ力が大きくなり、パワーバランスにも影響を与えます。最近はこのパワーバランスの変化もオタクのアイデンティティを構成することの要素になっていると感じます。

 かくしてオタクを重視した作品が作られていきます。その方が儲かるとなればアニメ業界全体もそちらへ傾くでしょう。そして理不尽な方向の転換も図られるでしょう。金のために変わっていくアニメーション、そしてさらにオタクのアニメの私物化、アイデンティティを誇示するための手段化は進んでいくでしょう。このアニメ「クリエイターの物からオタクの物への転換」こそが、今のアニメ業界全体に蔓延する闇となっていると感じます。

 *余談ですが上記のことが理解できれば山本監督が『君の名は』を高く評価していることも理解できると個人的には解釈しています。オタクの需要ど真ん中ではなく「一般人」にむけた作品で、あれだけ結果を残した。それだけでも今のアニメ業界が終わっていないことの希望の光であると山本監督は感じたのだと思います。あくまで推測ですが。

3.いまのWUG!で起きていること

 ここまで『Wake Up, Girls!』という作品と、オタクとアニメについての考察をしていきました。この2つのことを前提に今(2017年10月 アニメ『Wake Up, Girls! 新章』放送期間中)のWUG!について書いていきたいと思います。

 現在、Wake Up, Girls!の原案者であり旧章の監督であった山本監督を中心に様々な問題が取り正されています。この発端となったといってもいい事件は2つ、WUG!の主演を務める声優による発言です。ここでは詳細は省きますが、WUG!の暗い部分を否定的に捉えていると捉えかねない発言と、『七人のアイドル』のパンチラの演出を否定するような、端的に言えば旧章を否定するように聞こえる内容の物でした。これが炎上し、ことの発端となっていきました。問題はそのような発言を声優という内部の人間がしたこと、そしてその内容が旧章の放送時に出ていた批判と極めて似通っていたことです。暗い部分を映すこと、パンチラという演出をあえて行うこと、この2つはある意味旧章の肝となる部分でした。そして賛否の分かれた点でした。また、旧章を愛する人の多くが肯定している点でもありました。

 アイドルアニメで暗い部分を映すこと、パンチラをさせることは2つ目のトピックで書いたいわゆるオタク的なアニメへのアンチテーゼであると僕は解釈しています。あえて描いた部分であり、これこそがWUG!である軸である部分です。これを否定するということは、ある意味ではWUG!を否定するどころか、ただの記号的な汚いもののない安全なアニメを肯定することになります。アニメ業界全体の歪を生み出し、また歪の原因になっているあのアニメです。これは僕自身とても悲しい気持ちになりました。一番の根幹を否定された、それも彼女たちに。

 また、新章のアニメそのものにも懐疑的な意見が集まっています。CGを使ったダンスシーンやデフォルメされたキャラデザ、2年後とは思えないキャラクターの言動や設定など、様々です。これらの批判は旧章を踏まえてのものです。旧章で表現された「らしさ」が失われているというものが批判の核です。

 ここで改めて旧章を振り返ってみましょう。旧章ではダンスシーンを手描きで映し、カメラアングルも観客の視点(正面)が基本でした。さらにすでに書いたように普通のアイドルアニメでは描かれることのない暗い一面もあり、それに抗う少女たちの姿がありました。そして何より、仙台への、東北へのリスペクトがありました。大きくとらえればこれらが旧章魅力として語られることの多い要素であり、僕自身も旧章の好きなところです。また、多くのアニメと一線を画す要素です。新章の批判はこの旧章の特徴との対比で行われています。つまり、旧章の良いところ、個性が消されてしまっている。つまりただの安全で怖くない「オタク向けのアニメ」になっているという批判です。僕も違和感を覚えるのはこの批判をされている部分です。WUG!というアニメの最も重要な構成要素がないがしろにされているということです。これは旧章のスタッフが引き継いでいたら絶対に起こりえなかったことでしょう。しかし、avexはその方向性をとりませんでした。そればかりか「らしさ」の中核である人員を排除することを選んだのです。この選択についての詳しいことは公式声明が何も出ていないのでわかりませんが、確実に「らしさ」は失われました。そしてもともと作品を持っていたクリエイターからオタクのものへ変わったのです。

 説明なしの監督の交代や、スタッフの入れ替え、曲のクレジットを掲載しないなど、不可解な点はまだまだあります。これらの要素はアニメが良くない方向へ進んでしまったということを端的に表していると思います。その方向への舵取りに加担していたのは間違いなく僕らオタクなのでしょう。その責任を今取らされているのでしょう。それはもう戻れないことなのでしょう。これはWUG!にとどまることではありません。WUG!は反面教師となるか、それとも「残念な作品」で終わるのか、そのどちらであっても非常に悲しいと僕は思います。

 

 そして、作品を奪われた悲しみは想像を絶するものでしょう。オタクのためにしてきたことをこんな形で返されるなんて、考えたくもありません。果たして誰が幸せなのでしょう?仮に幸せな人間がいたとして、その人はそれでいいのでしょう?

考えれば考えるほど、気持ちは沈んでいきます。

 また、声優ユニットWake Up, Girls!についても触れておかなければなりません。言い方はよくないかもしれませんが、彼女たちはあくまで『Wake Up, Girls!』という作品の構成要素の一部です。いうなればアニメの具現者であり、アニメあってこその存在です。逆に言えば、彼女たちの存在は、アニメを肯定することになります。ましてや新章の放送中、彼女たちは新章のアニメーションとリアルを結ぶ役割を担わなければなりません。つまり、新章を、オタクのために成り下がったWUG!を、監督・スタッフが変わり本来の所有者の物ではない作品を積極的に肯定しなけばならないのです。このことをかわいそうと捉えるか、共犯者と捉えるかは個人の気持ち次第だと思います。しかし、絶対的に強調しておくべき点は、『Wake Up, Girls!』という作品においては、活動していることが今のWUG!の肯定であり、アニメとユニットを別物としてとらえることはできないということです。

 これまで長々とWUG!のこと、アニメのことについて書いてきました。まだまだ書きたいこともありますが、この辺りで締めとします。最後に、僕のアニメへの要望を勝手に書かせていただきます。それは「誰かにとってどうでもいいような作品でも、誰かにとってはかけがえのない作品であることもある。そのうえで手を抜いて作ることは、アニメと見る人への冒涜であり、それだけはしないでほしい。」ということです。これについて深くは書きません。届くとも思っていません。ただ、一人のアニメを愛する人間として、書かせていただきます。

 以上でこの記事を終わります。最後までお付き合いしていただきありがとうございます。この記事に対しての意見は肯定否定、誹謗中傷含めてなんでもお聞かせください。議論すること、そのものに価値はありますので。

 それでは。