アンサーソングは届かない

マンチェスターシティとRe:ステージ!を愛するブログ 考察とかを書いてます

キミも今日からめ草になろう!~スキンケア編~

全国の1,000万め草ファンのみんな!くろーぷだよ!

今日はみんなにめ草になる方法スキンケア編と題して日頃ぼくがどんなことしているか、どんなアイテムを使っているか紹介しようと思うよ!「め草になりたい!でもどうしたらいいの?」そんなお悩みを解決できたらいいなっ!それじゃあスタート!

 

 

 

 

…こんにちは、くろーぷです。

なんかノリで求められてそうで求められてなさそうな前振りをしてしまいました…。
えーと、今回は自分が日ごろやっているスキンケアについて紹介しようと思います。
需要はないと思うので自己満ですが、スキンケア悩んでるとか、そういう人の参考になったら嬉しいです。でも「こんだけやってもめ草になるの草」って言ってくれるのが一番美味しい美味しいだネ!ちなみに紹介したアイテムを使うともれなく顔面がめ草に近づきます。
今回は僕の使っているスキンケアアイテムの紹介&レビューって感じです。
スキンケア編って書いてますが、洋服編とか気が向いたら書こうかな程度のモンです。

それじゃーいきましょー。

※ちなみにめ草とは「めっちゃオタク顔で草」の略で、初めて会ったフォロワーに言われた一言です。マジで人間かこいつ??ってなりました。

 

1.スキンケアアイテムと使い方

僕のやっているスキンケアは基本的なことだけです。洗顔→化粧水→乳液を朝夜2回ですね。スタンダードかつみなさんまぁやってることかなと。
ちなみにですが、個人的に男性が基礎化粧品(洗顔料、化粧水、乳液)に金をかけるのはめちゃくちゃコスパがいいと思っています。男性は化粧を基本的にしないので、地肌勝負です。なので地肌に直で働きかける基礎化粧品できれいな状態にしておくのは、コストの割にダイレクトに見た目に反映されます。上から塗って何とかするわけじゃないからこそ金かけろ、そういう理論です。
ではでは、実際に使ってるアイテムとお値段はこんな感じです、どーぞ。

  • 洗顔:Aesop ジェントル クレンジング ミルク 200ml 5,830円(税込)
  • 化粧水:ALBION 薬用スキンコンディショナー エッセンシャル 165ml 5,500円(税込)

  • 乳液:Aesop モロッカンネロリ ポストシェーブ ローション 60ml 5,390円(税込)

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左からALBION 薬用スキンコンディショナー エッセンシャル、Aesop ジェントル クレンジング ミルク、Aesop モロッカンネロリ ポストシェーブ ローション
一応言っておくと、Aesopはオーストラリアのスキンケアブランド、ハンドクリームはかなり有名ですね。ALBIONは日本の化粧品ブランドです。
自分自身はおでこ~鼻はオイリー肌、目元と頬は乾燥しがちな混合肌で、肌も弱いって感じです。男性は結構混合肌多いんじゃないかな~って気がします。自分の肌ようわからん!って人はオカンか彼女か同僚に聞いてみるか、化粧品売り場で質問してみてください。
じゃあそれぞれのアイテムの紹介へいきます。
※このブログは当然アフィリエイトなんてやってないので、気にせずリンクからお買い物してください、貢ぎたいって人は口座教えるのでDMください♡

 

Aesop ジェントル クレンジング ミルク

www.aesop.com

泡立て不要のミルクタイプの洗顔です。顔をあらかじめ濡らしておく必要もなく、瓶からだしてすぐ使えるのでめっちゃ楽です。メンズ用の洗顔って「メンソールでーーーーす!!!」って感じだったり、「顔の皮脂は全部さらっていきますね!!!」みたいな気合の入りすぎたやつが多い(当社比)ので、顔面の草がかれてしまうと困る僕は結構いいのにたどり着くまで時間がかかりました…
このジェントル クレンジング ミルクは何より低刺激なのにしっかり洗いあげてくれるのが嬉しいです。そして手のひらに少量出して広げ、そのまま顔の上をクルクルするだけ。個人的に洗顔のたびに泡立てネットを出して、手が顔に触れないように泡で洗って、みたいな工程が死ぬほどめんどくせえ!!って感じだったので、楽なのがなによりも助かります。
もともとクレンジングなだけあって洗浄力は文句なし。香りもウッドとハーブ系の爽やかなかんじで、メンズでも使いやすいと思います。パッケージもシンプルなので、洗面台にあってもなじみますね。
僕にはかなりあっていて、吹き出物系の肌荒れは赤みはかなり軽減されたと思います。
200mlで公式だと3か月用らしいんですが、くろーぷの顔面は小さいので倍の半年もちました。ケチなのではなく顔面が小さいからです。なのでお値段は高めですが結構長く使えてコスパは悪くないかな~と思いますね。

 

ALBION 薬用スキンコンディショナー エッセンシャル

www.albion.co.jp

老舗の化粧水、通称スキコンです。「迷ったらコレ買っておけば大丈夫」といわれるくらい有名かつ実力派の化粧水です。まるでベルナルドみたいですね(???)
北海道産のハトムギを使っているということで、白濁したサラッと系です。バランサー的な役割で、しっかりうるおいを与えながら肌のコンディションを整えてくれます。あとはくすみがなくなる感じがしますね。オタクはしゃべり方からふるまいまでくすみまくっているので、顔面くらいは血色いいほうがいいかなと。てか血色悪いと普通に不審者だからね。
水のような質感でスーっと顔に馴染んでいきます。すぐに浸透するので、トロッとした塗った感が強い化粧水は苦手、という人にはオススメです。ちょっとひんやりするので、夏場もさっぱり使えそうなのがうれしいですね。オイリーな部分も乾燥してる部分もまとめてサクッとなので扱いやすくてよき~ですね。3~4か月用で5,500円とお値段は高めなので、バシャバシャ使いたい!って人は富豪になるか他探すのももちろんいいかなと。ナチュリエのハトムギ化粧水は似たような感じでめっちゃ安くいんですが、使ったことがないので細かいことはわかりません、スマン。

 

Aesop モロッカンネロリ ポストシェーブ ローション
www.aesop.com


乳液も洗顔と同じくAesopを使っています。post shaveの名前の通り、髭剃りや顔そりをした後の敏感な肌を優しく守ってくれる乳液です。
元々色白で肌が弱いため、髭剃り負けや赤みが出やすいこともあり、そこをケアしてくれるポストシェーブローションは重宝してます。塗ると赤みが引いてくれるので、朝恥ずかしくないですね、まぁマスクしてるんですが…
保湿力もあるので髭剃り後だけでなく入浴後の乳液としても使える優れものです。
普通のどろっとした液体の乳液とは違い、クリームタイプです。ニベアのクリームと普通の乳液の間くらいのイメージですかね。伸びが良いのでたっぷり取らなくても顔と首元まで使えます。
香りはこちらもウッド系。少し強めに香りますが、個人的には好きな香りなので全然気にせず、むしろ「顔面から芳香を放つオタク顔で草」と思いながら使っているくらいです。
お値段は3か月用で5,390円です。まだ使い切っていませんが、例によって顔面が小さいので3か月以上使えそうな気がしてます。まぁ安くはないですが、髭剃り用のローションと乳液ふたつ買うのもめんどいのでいっかな~って思ってます。

 

 

こんな感じで使っている基礎化粧品を紹介しました。
余談ですがフォロワーの紹介で髭脱毛で湘南美容外科に行ってます。半年やってみたところ、ツルツルには程遠いですが、始める前に比べると確実に薄くなってます。6回で3万円くらいでした。どれだけ薄くなるかは人によるらしい。個人的には脂汗出るくらいには痛いです。茹でたてのアツアツ輪ゴムでビシッ!ってやられる痛さで無理になってます。
あとシェービングクリームはニベアのやつを愛用してます。メンソールのないシェービングクリーム全然なくて無理なんですよね…。
あと一通り顔面整備した後にnullのBBクリームっていうコンシーラー塗ってます。

紹介したアイテムはどれも気に入っているのでオススメです。大学生のころは安い極潤とか使ってましたが、それと比べるとさすがに違うなと。僕のファンとかめ草顔になりたいそこのキミは当然として、それ以外の人にももちろん使ってみてほしい

ということで今回はこんな感じです。世の中にはバケモンみたいな量の基礎化粧品が売っているので、迷ったら「肌質」「予算」「詳しい人への相談」で決めるといいかなと思います。聞かれたらもちろんお答えするんで質問箱にでも投げといてください。時々僕の質問箱をゴミ箱だと思っている人がいますが、あれ質問するためのものですからね

それではよき顔面ライフを~。

GhostはShellを必要とするのか?-攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL/STAND ALONE COMPLEX 感想

こんにちは。くろーぷです。

前々から見ようと思っていた『攻殻機動隊』シリーズ。なんとなく難しそうで、どこから手を付けたもんだか…と思ってました。ただ最近ちょっと時間ができたのでGHOST IN THE SHELLとS.A.C.(STAND ALONE COMPLEX)を見ることができ、なんでもっと早く見なかったのか、と後悔…これ俺が大好きなサイバー系近未来SFじゃん…

例によって色んなことを考えながら感想を書いていきます。GHOST IN THE SHELLとS.A.C.しか見れていないので、そこまでで感じたこと、考察なんかを書いていきます。

それでは、よろしくお願いします。

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1.舞台設定の整理とキーテーマ

まず舞台設定の整理から。
高度な情報化が進んだ近未来、電脳化と義体によるサイボーグ化。それらを利用したサイバー犯罪を取り締まる公安9課。そしてこの世界の申し子ともいうべき少佐・草薙素子

もう手垢のついた話ではありますが、これらの設定自体、1991年という年代を考えると圧倒的ですね。2021年であればAIやクラウドコンピューティング、プログラム制御なども非常に身近な存在ではありますが、Windows95が世に出るずっと昔にインターネットによる情報の共有やサイバー犯罪、またその上位に位置する「存在」という概念(今回の感想で一番話したい内容です)まで含めた骨太な構想…あまりに先見的で言葉もありません。自分が生まれるずっと前に誕生していたことにまずは称賛を送りたいです。とてつもなく引き込まれる世界観でした。

さて、この攻殻機動隊の世界の中で、特にキーになっていると感じたものは「電脳」「記憶」「義体」そして「ゴースト」です。もちろん9課の存在や個々のキャラクターもありますが、物語の根底を支えるこれらの設定こそが何よりも重要だと考えています。
また、電脳化、情報化が進んでいるとはいえ、社会を構成する最小単位はあくまで「個人」(=自我を持つ人物一人ひとり)だということも非常に重要だと感じました。現代社会と同じように人権が尊重されていることが伺えます。
これらはGHOST IN THE SHELL、S.A.C.どちらでも中心的に語られた「存在」というテーマに深く根ざすものであり、この作品を味わうために鍵になる要素であると考えていま」。
次章から、「電脳」「記憶」「義体」「ゴースト」がどう「存在」に結びつくのか、そしてGHOST IN THE SHELLSTAND ALONE COMPLEXの感想を書いていきます。

 

 

2.攻殻機動隊の世界における「個人」と「自己」

この章で述べる「個人」という概念について、まずは定義を整理しておきましょう。今回のテーマと相性がいいこと、また私が専攻していたことを踏まえ、社会科学的な知見から引用しようと思います。

まず個人は自我を持つ一人ひとりであると言えます。その自我は、有斐閣の新版増補版社会学小辞典によると「行動や意識の主体とされ、他とは区別された社会行動の理解における重要な準拠枠のひとつ」とされています。また、「イド(本能や衝動)から発して外界の影響によって分化し、理性や分別の役割を演ずるもの」であるともされています。つまり、行動や意識の主体であり、理性を持って活動を規定する存在であるということです。また、主体であるということは客体=他者が存在するということと同義であり、他者を認識することも含まれて行きます。それと同時に、意識や行動の主体となるということは、それを実行するための判断材料(=記憶)と物理的な道具(=肉体)が必要とされることが前提として考えられます。

そのうえで攻殻機動隊の世界では、前章でも述べたように、脳は電脳化され、記憶は記録として管理され、肉体は義体として代替可能になっています。
これはどういうことか。コンピュータで例えると、ローカルに保存されている情報は外部入力でいかようにも変容できるものであり、ハードも生産可能であるということです。しかし、コンピュータと違って、人には確固たる「個」を規定する脳があります。脳は精神を生み出し、それは攻殻機動隊の世界では「ゴースト」と呼ばれています。
つまり様々な記録をもとに義体によって結果を出力するという行動を決定するのが電脳=ゴーストであり、逆に言えばゴーストのみが「行動や意識の主体」たりうるということです。ゴーストがあるからこそ「個人」として存在できるのであり、ゴーストが真の意味でアイデンティティといえます。
ちなみに現代社会では記憶は一部外部化できているものの、基本的には個人の脳に蓄積されるローカルなもので、学習や体験によって獲得されます。また肉体も変容するものであり、自己認識に非常に大きな影響を与えています。つまり私たちは「記憶」「肉体」「精神」によって「自己」を認識していますが、攻殻機動隊の世界では「記憶」「肉体」は代替可能であるがゆえに「精神=(電脳による)ゴースト」のみが「自己」を自己たらしめる要素である、ということもできます。

しかし、電脳化と義体化を完全に行っている素子でさえ、GHOST IN THE SHELL人形使いと記憶を並列化した際、また少女の義体になった際に自己認識の変容が発生しています(自らの意思で9課を脱退し、どこかへ向かうラストシーンはその象徴)。つまり、ゴーストが記録と義体を制御する主体であるのも関わらず、生身の人間同様、記録と義体の変化によってゴーストも変容しうるということが示唆されているのです。これは、外的な記録の編纂や義体の変化などにより、ゴーストそのもの=自己が変容しうるということです。ゴーストのみが自己認識のよりどころであるにも関わらず、それは外部的に変容可能であり、あの世界ではハッキングや義体発注などで半ば強制的に行うことさえできてしまいます。そうして意図的に作られたゴーストを自分であるといえるのでしょうか。またそのような個人が形成する社会とは何なのでしょうか。その解の一つが人形使いであり、スタンドアローンコンプレックスという社会行動なのではないか、ということが劇中で示されたのだと私は考えています。

 

 

3.人形使いが拡大させる「個」

GHOST IN THE SHELLに登場した人形使い。数多の人間にゴーストハックをしかける凄腕のハッカーであり、政治的亡命を要求する自称「生命」です(実際は6課の作り出したAIだったのですが)。清掃員の記憶を改竄する、素子と同じタイプの義体に侵入するなど、そのハッキング能力を活かして正体を明かさずに活動します。彼はAIとして様々な記録を蓄積するうちに自我を獲得していきます。ここはS.A.C.のタチコマも同様ですね。作中にAIが感情や自我を獲得すること、またそのシンギュラリティについて問題提起がされていることがわかります。
作中で6課は人形使いを制御できなくなり、ネットの世界に放たれてしまいます。そして彼は自らをインターネットによって生み出された生命を自称します。しかしこの人形使いはもとはAIであり、9課に押収された義体に入る前は「肉体」を持ちませんでした。また、記録もさまざまな場所から吸収したものです。それでもおぼろげにゴーストがあるということが作中で語られます。つまり、後天的にでも肉体と記憶に相当するものを獲得できれば、それで精神を成立させうる、つまりゴーストが生まれ「個人」が成立するのです。作中では行われませんでしたが、人形使いのゴーストの獲得経緯とハッキング能力をもってすれば、「個」を大量に生産することが可能なのではないかと私は見ながら考えました。そう、ちょうどWindowsをOSとしてインストールしたPCが大量こに生産されるように。ここで「個」という概念は個別のハードに存在するのではなく、巨大な一つの概念としての、複製元となる「個」が理論上成立しています。
一方、生物の原初的な部分に立ち返ると、種の繁栄とそれを達成するための生殖活動は極めて基本的なものです。しかし人形使いはAIであるがゆえにそれができません。実際、人形使い自身も「コピーはただのコピー」「一つのきっかけで滅びうる」「私自身では生殖をおこなえない」と語っています。そこで素子という存在と並列化することで生殖可能な肉体を手に入れることとなります。作中では素子の例しか現れませんでしたが、もしこの裏で同じことを行っていたらどうでしょう。素子と同じように人形使いの自我を持った個人が大量にうまれ(=人形使いという個が同時にいくつも存在する)、彼らが生殖をおこなった場合、一人の人間が行える生殖活動のキャパシティを大きく上回ります。これは生命の一つの大きな可能性ではないか、と思われてなりません。こうして拡大する個とその再生産活動。少し拡大解釈かもしれませんが、それは画一的な社会の始まりを意味するのかもしれません。人形使いを通して描かれた肥大化する個というテーマは、電脳・情報化社会の一つのリスクを暗示しているといえるのではないでしょうか。

 

 

3.電脳化された集団心理-Stand Alone Complex

一方で、S.A.C.で登場した笑い男人形使いとは全く一線を画する存在であると考えます。
彼は作中の描写を見るに、ハッキング能力は人形使いと同等であるという風に考えられます。バトーの視界を一瞬で盗んだり、9課を逆に利用したりと、高い技術力を有していることがわかります。そして彼の目的は電脳硬化症に対する正しい治療法の普及と不正の暴露および是正という社会正義にかなった、非常に「ゴースト」らしいものでした。
実際に、彼がゴーストハッキングをしたのは一部の交渉や匿名性の担保のためのアイコン表示が主であり、人形使いのような乱用はしていません。能力的には恐らくはできたのでしょうが、理想に生きた彼は他者に行動を強制する「個人の増幅」は行いませんでした。彼には確固たるゴーストがあり、動機からして個人の増幅に価値はありませんでした。その意味で笑い男人形使いの対になるような存在です。

しかし、笑い男の意図に反して「個の概念化」が行われることになります。それがStand Alone Complexであり、模倣犯の出現です。
笑い男は作中で一種のネットミームのような扱いを受けていました。街には笑い男のロゴが溢れ、ネットの中では笑い男を名乗る人間が多数現れる。誰もが確認したことのない笑い男を様々な角度から解釈し、ある種の集合知のような形で具象化、電脳世界の中で笑い男という「個を概念化」していきました。このようなネットミームを基にした虚像の成立は、現代でもQアノンを始め社会問題となっています。こうして人々が同じ「笑い男」を演じ続けるStand Alone Complexが生まれることとなります。正反対な人形使い笑い男が、違う道のりでもってある種同じ概念化を進むという、非常に示唆的な内容であると感じました。

 

4.情報化された世界での「存在」について

こうして見渡した際に、やはり攻殻機動隊の世界では「存在」という概念について深く考えさせられるシーンが多数ありました。「記憶」「記録」「肉体」「義体」「精神」「ゴースト」はそれぞれ相補的なものであり、電脳化が進みゆく過渡期の世界での揺らぎとなっていました。
同じく情報化社会を扱った作品『Serial Experiments Lain』では、記憶をすべてデータ化することでワイヤード(Lainの世界の中でのインターネットに似た疑似空間)に生きることができ、それは肉体(攻殻機動隊のShell)という枷を外し、さらなる自由を享受でき、それこそが人間の解放であるという思想が示唆されました。
攻殻機動隊世界線で技術革新がつづいていった場合、どのように人間は変化していくのでしょうか。トグサのように機関に勤務しながらもほぼ生身の人間もいれば、素子やバトーのようにほぼ電脳化と義体化を行った人間もいます。この電脳化と義体化は、肉体の強化や記憶のコントロールなど、非常に便利なものであると同時に、メンテナンスを必要としたり、その記憶を属する組織に還元しなければならないというデメリットも存在することがGHOST IN THE SHELLでは示されています。
また同時に素子すら悩んでいたような、電脳化と義体化によるアイデンティティの喪失という、存在自認の問題も同時に孕んでしまいます。他者との記憶の並列化は便利な反面、自分独自の記憶を失うことを示唆しています。また、自らの身体を意のままに変化させられる一方で、どこかに同じようなオーダーをして似たような誰かがいる可能性も否定できません。実際に自分がその世界にいたとして、記憶、身体、そしてゴーストが本当に自分のものであると言い切れるでしょうか。記憶を外部から変換された記憶を自分ではもつことができないとして、義体は本当に自ら望んだものなのか。そうやって自分に備わっている記録と義体から作られるゴーストが、本当に自分のゴーストであると自信をもって断言できるでしょうか。
こうして考えると高度情報化社会の光と闇を垣間見ることができると思います。光は生物種の限界を超える圧倒的なものである一方、闇は「存在」そのものにかかわる重大な問題であると言えます。この答えのない問いを正面から考えるという意味で、攻殻機動隊は非常に興味深い作品でした。

 

ここまで様々考えながら書いてきましたが、作品全体を通して、設定を存分に生かしたストーリーの構築、それを伝える映像美と音楽と演技、そして示唆に富んだテーマの数々…。非常にハイレベルで思わずうなってしまう、非常に面白い作品でした。何といっても30年前にこの世界観を作り上げた士郎先生の圧倒的な力量には感服です。脳のシワが増えるような感覚を覚えながらみることができ、とても楽しめました。SFとして、警察ものとして、絶対的な評価を受けるこの2作品は、紛れもなく私の生涯触れてきたコンテンツの中でもトップに入ります。これからも時間をみつけ、少しずつ紐解きながら見ていこう、そう私のゴーストが囁いています。

すね毛を剃る。

すね毛を剃る。

それは、やけにスースーすること。
それは、お風呂の感覚がちょっぴり変わること。
それは、夏を素敵に過ごすこと。

すね毛を剃る。

それは、女の子だけじゃなくて男の子も。
それは、海に行かなくても。
それは、夏があまり好きじゃなくても。

すね毛を剃る。

それは、カミソリで一思いに。
それは、お風呂から出たら化粧水を。
それは、一回で全部剃ると翌日地獄で。

すね毛を剃る。

それは、なでると気持ち良い。
それは、太ももまで剃らないと気持ち悪い。
それは、脱毛するか悩ましい。

 

すね毛を剃る。

すね毛を剃る。

込められた想いが繋ぐ、新たなステージ【Re:ステージ!ワンマンライブ 〜Chain of Dream〜感想】

こんにちは、くろーぷです。

 

ワンマンライブお疲れ様でした!1年半ぶりのリステ、本当に最高でしたね。やっぱりリステが一番なんだ、改めてそう感じました。
本稿はライブの感想記事なのですが、まずはその前に感謝の言葉を書かせてください。
このような状況の中、1年間の延期もありながら最高のパフォーマンスを見せてくださった演者のみなさん、準備に奔走してくださったスタッフのみなさん、そして会場で、オンラインで、最高の瞬間を見届けたリメンバーズの皆さん。みなさんのおかげでリステワンマンがありました。本当にありがとうございました。また素敵な景色を一緒に!

さて、そんな素敵な2日間の感想を書いていこうと思います。全曲に対して言いたいことは山ほどあるのだけれど、全部書くわけにもいかないですし。今回は印象的なパフォーマンスや曲、感じた意味などを書いていこうと思います。

 

それでは、よろしくお願いします。

※本記事はライブの瞬間に感じたことを言葉にすることを重視しています。演者さんの発言など実際とは差異がある場合がございます。ご了承ください。

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目次

 

  

「3人でオルタンシア」-オルタンシア公演

ワンマンライブは知っての通り、新生オルタンシアの船出となりました。『「Re:ステージ!」PRISM☆LIVE!! 3rd STAGE ~Reflection~』(以下3rd)で花守ゆみりさんが卒業し、嶺内ともみさんが伊津村陽花役を引き継ぎました。そのお披露目になったのが本公演。私は新しいオルタンシアが何を見せてくれるのか、期待と、少しの不安を抱えて席に着きました。
OPが明け、2人がステージに現れ、響き渡ったのは『Re:Rays』。はつらつとした笑顔でパフォーマンスをする小澤亜李さんと嶺内ともみさん。一言ひとこと丁寧に紡ぎ、指先まで神経を研ぎ澄ませ、シンクロする「オーライ」。新生オルタンシアを印象付けるには十分すぎるほどのインパクトを観客席に与えました。
続いて披露されたのは『Dear マイフレンド』。3rdで涙ながらに花守ゆみりさんと小澤亜李さんが歌ったこの曲が2曲目でした。あの時の胸が張り裂けるような『Dear マイフレンド』とは打って変わり、お互いに「よろしくね」と微笑み合う、暖かな明るさがありました。
オルタンシアは2人しかいないからこそ誤魔化しの効かない、絶妙なバランス感覚で聴かせるユニットです。これまでは花守ゆみりさんと小澤亜李さんの関係性があったからこそ、それを表現できていました。だからこそ、嶺内ともみさんには巨大なプレッシャーは当然あったでしょうし、小澤亜李さんもそれを受け入れて、新しくスタートを切らねばならなかったと思います。MCで嶺内ともみさんは「たくさん練習した」と繰り返し、小澤亜李さんは「その姿を見て頑張っている、すごいな、私も頑張らないと」と感じたと話してくれました。この想いは最初の2曲に強く込められていたはずです。
『Re:Rays』で新生オルタンシアを印象付けて、『Dear マイフレンド』で過去を大切にしつつ、だからこそ前を向いた。かつてのオルタンシアへのリスペクトと、今からここから始まる未来。その両方を併せ持った美しいステージでした。
嶺内ともみさんの姿勢はオルタンシアの新しい種となり、芽を出したのです。言うなれば花守ゆみりさんと小澤亜李さんで咲かせた大輪の紫陽花を、嶺内ともみさんはより美しく育てようとしているのだと、そう感じるステージでした。
紫陽花は一年草、冬は葉を落とし枯れたかのような姿になりますが、本当は寒さに耐え、満開の花を咲かせる準備をしているのです。今回のオルタンシア公演は、儚くもしゃんとした、最初の一輪が花開いたステージでした。花守ゆみりさんと小澤亜李さん、そして嶺内ともみさんの3人がいたからこそ成しえた、美しい紫陽花がそこには笑顔で佇んでいました。

  

「4年半越しのアンサーソング」-KiRaRe公演

KiRaReはこの5年、Re:ステージ!の歴史を主体となって紡いできました。あの日も、あの瞬間も、6人は確かに歴史をつなぎ、新しい世界を見せてくれました。
メインでやってきた6人もこんなに長くライブがないという経験はなく、久々のステージ。それでもMCのあのわちゃわちゃした雰囲気を見て、いつもと変わらないKiRaReがそこにいると安心できました。
KiRaReはコンテンツを背負って立つ存在であり、1曲1曲に印象的なライブ、パフォーマンスが存在します。6年目になるRe:ステージ!の過去を繋ぐ役割をKiRaReの曲は担っている、私はそう感じています。だからこそ初披露された『We Remember』の「繋がれ 繋がれ」というメッセージも自然と馴染み、新しい歴史のページが刻まれたように思えました。
そして何といっても、KiRaRe公演の主役は立花芽恵夢さんその人でした。センターで歌う『We Remember』に始まり、ソロの『ガジェットはプリンセス』、デュエットの『ク・ルリラビー』、アンコールの『君に贈るAngel Yell』。さらには幕間のダンスパートまで。彼女の持てるすべてが表現されていました。
本当に美しくて素晴らしくて、筆舌に尽くし難いほどの時間だったのですが、1年半のブランクがあってそう簡単に実現できるものではありません。そこにはやはり彼女自身の資質、メンタリティーが大きく影響していると感じています。
デュエットパート後のMCで立花芽恵夢さんは、「椿本さんから「今回は芽恵夢に頑張ってもらうから」と言われて今回のセットリストを受け取ったとき、本当にすごくうれしくて、頑張ろうって思いました」と語りました。プロとして期待されて、それをプレッシャーにすら感じず純粋にパフォーマンスを追い求められる姿勢、それを狙うでもなく自然体でできる精神性。立花芽恵夢さんは、今回のワンマンライブでは声量も上がってダンスも完璧で、かわいくて美しくて、それを評価する声は多く聞かれました。けれど本当に素晴らしいのは、それを形作る精神志向なのだと、あの言葉から感じられました。
そしてアンコールで迎えた『君に贈るAngel Yell』。この曲はRe:ステージ!初の大型イベント「キラリン☆感謝祭~集まれリメンバーズ~」でリメンバーズに強い衝撃を与えた曲、という歴史を持っています。当時は「大きいイベントだし楽しもう!」というカジュアルな雰囲気で、今のようなエモーショナルな空気とはまた違っていました。そのイベントの終盤で歌われたのがこの曲です。楽しく、そして熱い雰囲気に包まれて迎えた落ちサビ、立花芽恵夢さんのパートで聴こえてきたのは歌声ではなく涙声でした。目にいっぱいの涙を浮かべ、喉から声を絞り出そうとする彼女。「Re:ステージ!はこれだけ真剣なコンテンツなんだ」というリメンバーズの共通認識が生まれ、リステの方向性が大きく揺れ動いた瞬間でもありました。リステが今のような感情を揺さぶるコンテンツになった最初の瞬間だったとすら言えるのではないでしょうか。そんな過去を内包した曲を、立花芽恵夢さんは4年半の時を経てもう一度、大事な場面であの時とは全く違う表情で歌い上げたのです。これこそKiRaReが、Re:ステージ!が紡いできた歴史そのものだと思えました。あの時「この一言」が出なかったがゆえに生み出された世界を、立花芽恵夢さんはこの公演で、自ら「終わ」らせて、新しく、心の底から笑顔になれる、そんな心の揺れ方をさせられる世界に再構築したのです。この歳月が生み出した過去とつながった、また一つ新しい魅力。「アイドルを目指す少女たち」がアイドルとして羽ばたいた瞬間が、あの一小節には込められていました。
そして最後は『Startin' My RE:STAGE!!』。デビュー曲としてリリースされ、どんな時もKiRaReの、Re:ステージ!の、そしてリメンバーズの傍にあった曲。リリース当初とは違う意味をたくさんたくさん抱えたこの曲を、あの時と同じ笑顔で披露する6人。これだけ歌い続けても「新しい君が始まる」と思わせてくれる。それはやはりこのコンテンツのだからこそ、そしてKiRaReが自ら歴史を紡ぎ続けているからこそ、Re:ステージ!がRe:ステージ!でいられるのだと改めて感じました。
曲が終わりライトに照らされて浮かび上がった6つの影は肩で息をしていました。まるで「ここがまた新たなスタートラインだよ」と訴えかけるかのように。

  

「戻せない針と、進められる針」-テトラルキア公演

ワンマンライブ2日目。最初のユニットになったテトラルキアは、『Pins & Needles』で開幕のファンファーレを爆音で鳴らすと、勢いそのままに『Stay Together』『カアリア』『Fearless Girl』と畳みかけます。午前中に味わうにはあまりにハイカロリーなセットリストに会場はコール禁止とは思えないほどのボルテージに達します。特に『カナリア』はライブの定番、テトラルキアのアンセムともいえるクオリティで、会場が揺れているかのようでした。
ステージは滾る空気のままにソロ曲のパートへ。4曲の個性が、このユニットとは何たるかを強烈に刻み込みます。3rdでは披露されなかったフルということも手伝い、非常に満足感がありました。特に『One Step Ahead』のCメロの佐藤実季さんの絶唱は、あの細い身体からは想像できないほどの迫力で、西舘ハクというキャラクターがどれだけ真剣にテトラルキアというユニットを思っているのか、その強い気持ちが乗り移ったかのような、鬼気迫るものがありました。
そして後半パート、テトラルキア公演のハイライトになった曲は『境界線』でした。1stアルバムに収録されたこの曲は、爽やかながらも切ないロックナンバー。テトラルキアの中では少し違った立ち位置にあり、その個性ゆえに愛されてきました。自由で泰然として、いつも楽しそうなステージのテトラルキアからは想像できない等身大の心が描かれたこの曲を「一緒に踊る曲」として彼女たちは披露したのです。印象的に繰り返される「お願い神様」という歌詞は、今の当たり前が当たり前でなくなってしまった世界を何度もリフレインさせます。時計の針は戻せない、わかっているからこそ残酷なその事実。しかし、あのテトラルキアがそれを悲しいままに終わらせるはずがありません。サビの振りが客席とシンクロするのを心から楽しそうにみる4人。その瞳には過去への後悔ではなく、今この瞬間を全力で生きるという強い意志が込められているかのようでした。「とめどない今日」をいつだって更新すればいい、『Pins & Needles』の「今日も明日も来年も、今の自分がNo.1」という『境界線』とは違う自信に溢れたメッセージが、切ない歌詞から逆説的に溢れ、会場を満たしていくようでした。一体となって作り上げることで完成するテトラルキアのステージは、どんな状況でだって変わらずそこにあり続ける、そんな普遍性すら感じさせる、曲という枠に収まりきらない『境界線』を4人は披露してくれました。言葉でなくとも気持ちは伝わる、そんな強い想いを届けてくれたテトラルキアは、アンコールで再度『カナリア』を披露します。「心の声で叫べ カナリア」、この言葉が今までよりずっとずっと強い意味でもってリメンバーズの胸に届いた瞬間、テトラルキアはこのライブを真の意味で完成させていました。心の底から熱くなれる、感情のままに楽しめる、それは楽しんでいるあなたがいるから。純粋なライブの楽しさ、それをどんなときも忘れずに持ち続けているテトラルキア。リメンバーズのハートには、彼女たちの無垢な輝きが焼き付いたのはず、そう感じずにはいられない、最高のステージでした。  

 

「天使との距離」-トロワアンジュ公演

テトラルキアがリステの剛なら、トロワアンジュはリステの柔。いつも優しく微笑み、傷を癒す。その神聖さは1年半経っても失われるどころか、ますます凄みを増していました。
ストリングスから始まり、その神聖な世界をえも言えぬ響きに変える『Dears...』。極上の始まりから『月影のトロイメライ』『Silent Dystopia』『Sinfonia』と振り幅のあるセトリが続きます。
ソロ曲のパートでは、『優しい風』の、あの白鳥天葉とは思えないほどピュアな心が、『Skip』は那岐咲らしい、心まで弾むような、恋を楽しむ女の子の気持ちが、『Twin Moon』は奏の、色々な経験をして、単純に愛するだけではいられなくなった二人の関係が、それぞれ丁寧に丁寧に歌い上げられていました。それぞれの恋への想いの違いが、フルで聴くことでより鮮明に感じられました。
そしてこのこの公演で最も意味を深い意味を持ったのが『エンゼルランプ』でした。「トロワアンジュの歌はハモリがあったり、盛り上げる曲じゃないからこそ失敗できない、ちゃんとやらないと、という緊張感があったけど、今日は心から楽しめている」。MCで日岡なつみさんが語ったこの言葉は、まさしくこれまでのトロワアンジュのパフォーマンスと、リメンバーズとの関係性そのものでした。天使という厳かな称号の下、不可侵的な存在であり続ければならないのがトロワアンジュ。あえて近づきすぎないことで成立してきたこのリメンバーズとトロワアンジュの間にある世界観を『エンゼルランプ』はいい意味で変えていきました。
『エンゼルランプ』は初披露の時からサビ前の「(Moonlight...) 思い出だけを (Twilight...) 籠に摘めたら (Your Light...) 今にも溢れそうね」のパートに合わせて「せーの、はいはい」で一緒に振りをするのが恒例になっています。しかし1年半も経てば忘れてしまう人もいるかもしれない、なんとなく、3人はそう思っていたのかもしれません。しかし、その予想をリメンバーズは裏切ります。ソロ曲パートの後の1回目、最初の振りを見た3人の表情は、はっきりと明るくなりました。リメンバーズがこれだけ期間が開いても忘れずにやってくれた、その事実に思わず笑顔になる舞台の上の天使たち。そこからはトロワアンジュのライブでは今まで体験したことのない一体感が会場を包みました。
続けて披露された『Lumiere』『Cresc.Heart』『STORIA』では、日岡なつみさんも、長妻樹里さんも、阿部里果さんも、これまで見たことないほど楽しそうな表情をしていました。「トロワアンジュ」という世界観に規定された微笑みではなく、ライブそのものに対して幸せを感じている、その素直な心がそのまま表情に表れていました。私は最前列でその表情を見ることができたのですが、トロワアンジュのあんな表情は過去に見たことがありませんでした。そして最後にもう一度披露された『エンゼルランプ』。荘厳で神聖なイメージが付いたトロワアンジュが、『エンゼルランプ』のような明るい曲を新曲として発表する機会はこれから先あまりないかもしれません。初期の曲だからこそ紡いでこられた物語が、天使たちを呪縛から解放し、トロワアンジュとリメンバーズの距離を一気に縮めました。キャラクターの持っている世界観を演者が超えてくる、声優ライブでしか味わえない瞬間が生まれたのです。手を左右に振るごとに近づく心と心。今までトロワアンジュが目指してきたものとはまた別の、「楽しく作り上げるライブ」という、新しいステージの姿が自然発生的に形作られたのです。天使の心の庭に招待された、そんな心地すらしてくるほどうっとりとした、そして何より心から楽しめる時間が、白トロワ、黒トロワと規定されない、等身大のトロワアンジュの姿がそこにあったのです。

 

「最強の座、そのカタチ」-ステラマリス公演

「最強のユニット」。この設定で走り出したステラマリスは、その座を譲ることなく邁進し続けてきました。歌、パフォーマンス、演技力…彼女たちを最強たらしめる要素は数多くあります。そのうちのひとつが、あの日浮かび上がってくるかのようでした。
『Bridge to Dream』から始まったステージは、新曲とは思えないほどの完成度で地に足の着いた圧巻のパフォーマンス。この超然的な存在感こそがステラマリスなのだと細胞レベルで認識させられる、そんな1曲目。続く『恋はフュージョン』は会場をガンガンに盛り上げ、2曲目でボルテージは最高潮へ達します。
MCを挟んで『Stage of Star』『Secret Dream』と初期のナンバーが続き、ソロ曲パートへ。2019年春のツアー大阪公演以来、約2年ぶりのフルバージョンは、それぞれの個性が存分に発揮されたステージを作り上げました。もとよりステージでは式宮碧音、一条瑠夏、岬瑚を完全に再現して見せる3人なのですが、ソロ曲はよりキャラクターに寄せ、チューニングされた楽曲だからこそ、その輝きは一層強まります。諏訪彩花さんは『惑わしラプソディ』で瑠夏の等身大な悩み、悔恨、羨望をクールに歌い切る。田中あいみさんは『Glory Star』で珊瑚のプライドとまっすぐすぎるほどのアイドルへの思いを発露させる。そして高橋ミナミさんは『Desert Black Flower』は最強のユニットの中で最強の存在であり続けること、この孤高さ、気高さを痛々しいほど鮮明に紡ぐ。この同じユニットにありながら個々が違う方向を向き、己との戦いの中でステラマリスを作り上げていく、華やかなステージの裏側にある強さが、このソロ曲パートには存在していました。
その後は旗を使った幕間のダンスパフォーマンス、『Brilliant Wings』『InFiction』へと続きます。クールなダンスに、これまたかっこいい曲が2曲も披露されるのですが、その後のMCでは打って変わってふわとした優しくて面白い雰囲気に。「私の背が足りなくて旗を下げてもらった」という田中あいみさんの話や、「#リステワンマンライブ でツイートしてね!後で私がみるから!笑」という高橋ミナミさんの監視(?)発言など、さっきまでのステージとは別人のようなトーク。そしてトークが終われば真剣な顔でステラマリスを遂行する…。この振り幅、強烈なまでの役への入り込み、これこそが「最強ステラマリス」が最強たるゆえんなのではないか、感情でぐちゃぐちゃになった頭の中で、そんなことを考えていました。
声優さんのライブは、ライブという形態の中でもかなり異質です。キャラクターという明確に存在し、そして実在しない人物になりきって歌い、踊る。2次元のキャラクターと3次元の声優。この関係だからこそライブでは時々この次元の狭間が非常にあいまいになることがあります。この次元の間にあるグラデーションが濃くなったり、薄くなったり。限りなくキャラクターに近づき、錯覚すら生み出すほどのパフォーマンスをしたかと思えば、声優としてキャラクターとコンテンツに思いを馳せる。限りなく2次元に近い瞬間と3次元に一気に引き戻すこの緩急は、アニメの声優という特別な存在でしか生み出すことはできません。この揺さぶりがステラマリスは群を抜いて上手いのです。MCで賑やかに話したかと思えばすぐに最強ユニットの顔を見せる、その曲の中でもキャラクターに近い時も、演者としてのパフォーマンスを見せるときもある。声優しか表現できない世界を最大限魅せるその力量、懐の広さ、引き出しの多さ、これがステラマリスを最強たらしめているのだと、このワンマンライブで確信しました。アニメの楽屋のシーンのような、『Like the Sun, Like the Moon』のような。1年半という時間を感じさせない完成度の高さに、ワンマンライブの最後を飾るのがこのユニットがこのユニットでよかったと、心地よい疲労感の中で感じていました。
 

 

「Re:ステージ!ワンマンライブ 〜Chain of Dream〜」、2020年4月に予定されていたこのライブは、世界的なパンデミックの影響を受け延期に。どのユニットもMCで何度も話していた「当たり前が当たり前じゃない」という事実。それでもつなげ続けた夢が1年後ちゃんと叶った、これだけでも本当に価値のあることでした。そのうえで、誰一人手を抜かずに準備してきたことが伝わるライブで、これまでのリステが重ねてきた歴史の正しさを改めて感じることができました。
牧野天音さんが3rdの最後に語った「これまでは序章、これからもっともっと広がっていく」という言葉に嘘はなかったのです。そしてすべての公演で何度も強調された「Re:ステージ!はまだまだ続きます」という言葉。そう、これだけのコンテンツが簡単に終わっていいはずがありません。次のライブを楽しめるその瞬間まで、前を向いて生きていきたい、そう思えました。

ありがとう、Re:ステージ!、これまでも、そしてこれからも。

【感想】エヴァンゲリオンが見せた「救い」の意味

こんにちは、くろーぷです。

 

新世紀エヴァンゲリオン』を見終わりました。
新世紀エヴァンゲリオン(26話分)』『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』のいわゆる旧作を3日間で一気見、とにかく満足度が高かったです。
正直ここまで面白いとは思わず…オタクなら履修しなくてはと思っていたものの、ここまでズルズル来てしまいました。が、人生で見た映像作品では3本の指には入る面白さで、大好きな考察をしまくれるストーリー構成、魅力的なキャラクター、そしてサブカル史に残した足跡など、本当に刺激的で素晴らしかったです。

もう語りつくされたことではあるとは思いますが、エヴァの考察を書いていきます。解釈の違いや公式設定の読み間違いなど、さまざまあると思いますがそれも含め読んでいただけると嬉しいです。あくまで「公開時期に生まれたオタクが現代のフィルター、環境、知識を通してどうエヴァを見たか」について言及できればと思います。
「新世紀エヴァンゲリオン」の画像検索結果
それでは、よろしくお願いいたします。

(当然ネタバレを含みますが、こんなところまで読みに来る人は履修済みだと思うのでわざわざ注意書きする必要ないと思いますが一応…) 

 

1.「人類補完計画」について

エヴァの核心、そして物語が描こうとしたテーマ「人類補完計画」。エヴァの終着点であり、物語の中心、そして最も議論を呼ぶ部分です。
その目的は完全な単一個体になること。それは肉体的にではなく、精神として。シンジの中のいるシンジが嫌いなシンジ自身を他者の記憶(他者の中にいるシンジ)で補い、完璧な(=誰からも好かれる)シンジになる、というような、お互いの嫌なところを補い合うための儀式が「人類補完計画」でした。
SFは得てしてバトルや科学技術の裏に壮大なテーマがあるわけですが、エヴァもその例に漏れず、行きつく先は「人間の弱い心をどう克服するか?」でした。エヴァが聖書を拠点としているのもこのテーマを扱うため。宗教とは様々な解釈がありますが、一つの側面として「救済」があります。神に救われる、生まれながらの罪を浄化する、または許される、という要素です。神が救ってくれる、神によって自らの存在が許される、ということにある種収斂されます。
しかし、現代社会において、神という存在はどれだけ信じられ、人々を「救済」しているのでしょうか。特にこと日本において、一般市民にとって宗教は、非日常的なハレとケの日に意味づけをするための概念として存在(冠婚葬祭は宗教的儀礼で執り行われます)し、そこに救いを求めるということは存在しません。人間は救いを神や宗教という絶対的に安定した対象に求めることができなくなりました。

その代わりに現代社会で生まれた救いの対象が金、名誉でした。

資本主義は言えばこのうちの金と名誉を救いの対象とし、社会生活にビルトインしたモデルである、とも言えます。しかし金も名誉も人間自身が作為的に生み出した尺度でしかありません。金や名誉は簡単に失われます。神はあんなにも絶対的であったのに。金と名誉を軸に据えた救いのモデルは宗教に比べ、あまりに脆弱でした。金持ちは全員幸せか?権力者になることは絶対的な成功か?答えはノーでしょう。この2つは自分自身の能力や責任と密接にかかわっており、外部化することが困難です。神はこれを外部化し、自分救われるという超全的な態度でいられます。つまり自責が金や名誉という尺度より絶対的に少ない。むしろその自責を正当化するのものが宗教の役割である、とすら言えます。しかし神は存在しない。

ではどこに救いを求めるか?エヴァが示した答えが「他者からの愛」でした。

金と名誉は自負心という自らを愛することには有効ですが、それだけでは足りないのが人の心です。だから外部にも愛を求めます。それが「他者からの愛」。しかしこれもひどく不安定なものです。本当に愛してくれているのか?そもそも愛はあるのか?劇中では、みな疑心暗鬼でした。シンジは葛藤し、レイは目覚め、アスカは自分だけを愛することができず、他者からの愛を最終的に求めてしまいます。
この「他者からの愛」という不安定な救いの要素を固定化し、内在化させるために「人類補完計画」を行います。

 

2.「人類補完計画」を踏まえてのTV版のエンディング

TV版のエンディングは賛否両論あります。そりゃあのクオリティ、難解さ、これまでの流れをぶった切るような展開…。指摘される要素は多くあります。しかし、「人類補完計画」の一つの終着点としては非常に丁寧な解説があります。それぞれのキャラクターがいかに「他者の愛に飢えているか」。そしてその愛も「本当の愛かどうかわからない」という不安。だから自分を愛せない=救済されない。まずこの大前提が25話で示されます。
ではそれをどう克服するか、その具体例が26話の「すべてのチルドレンに、おめでとう」というラストです。シンジは「他者からの愛」があるから「自分を愛してもいい」という結論に至ります。シンジの中の学園モノの情景は「エヴァに乗らない世界線」ではなく「エヴァという外的な要因なしに自分を愛してくれる世界線=他者から無条件に愛される世界」でした。これが「人類補完計画」を完遂した「救済」なのです。
もはや肉体という生命の器はなく、精神世界に「生きて」います。
人類補完計画」は人を殺すことでも、世界を滅ぼすことでもなく、救済されることを目指した。それがこのエンドが示す意味であると考えます。

 

3.「人類補完計画」を踏まえての『Air/まごころを、君に』のエンディング

TV版に対して『Air/まごころを、君に』は「人類補完計画」が達成されなかった世界です。
どのような経緯でサードインパクトが起こるのか、その結果何があって「人類補完計画」が完遂されるのか、きちんと映像で表現されます。
ゼーレが目指した「人類補完計画」とゲンドウが目指した「人類補完計画」は手順の違いはあれど、終着点は同じでした。TV版と同じく、相互補完的な完全な単一個体を生み出すこと、これを夢見ていました。
ゼーレは初号機を触媒として、ゲンドウはレイを触媒としてサードインパクトを引き起こそうとします。ゲンドウの狙いはユイと再会するため。そのうえで補完されることで「救い」を目指します。
しかしゲンドウはリリスを目の前にしてレイに拒絶されます。私はあなたの人形ではない、と。

ここで少し遠回りをしますが、シンジ、アスカ、レイのそれぞれの「他者からの愛」のと捉え方を振り返ります。
まずシンジですが、シンジは「自分を認められないから、エヴァに乗ることで自分を肯定しようとした」「その確証のために他者から愛されること」を望みました。クラスメイトにあっさりエヴァの搭乗員であることを教えることも、拒絶していたエヴァへの搭乗を最終的には選ぶこと。それは他でもなく「他者から認められることで自分を愛せるから」でした。
アスカはその逆。アスカはエヴァに乗ることにプライドをかけていました。それは「エヴァに乗っている自分を愛せなければ誰も自分を認めてくれない」と考えたからです。シンジが自己否定を否定してくれる他者を求めたのとは反対に、アスカは自負や自己愛を肯定し、それを通して愛してくれる他者を求めました。だからリョウジ、そして母親という自分が尊敬できる対象からの言葉を欲しました。シンジやレイという自分より下(に見える)存在からの言葉には意味はありません。それは彼女のプライドを傷つけるだけです。…シンジはアスカから尊敬される前に繰り返し彼女に接するという最悪な方法をとってしまったわけですが。
そしてレイは誰かを愛すること、愛されることを必要としない存在として描かれました。唯一ゲンドウには(プログラムされたであろう)信愛を持っていましたが、話が進むにつれ、シンジと繰り返し接触することで愛を求めることを覚えていきます。愛への目覚め。これがレイです。
三人がそれぞれ違う愛を求めたものの、必要だったのは「他者からの愛」であることに変わりはありませんでした。

話を戻します。リリスを前に、自らの中に見つけた「シンジへの愛」を叶えるためリリスに入り込んでいきます。ゲンドウは結局ユイを出現させるには至らず、みずから組み込んだレイの「心」に刺される形になってしまいます。しかし、それすらも受け入れ、サードインパクトに期待するゲンドウ…。ユイさんめっちゃ好きなんだな…一周回ってユイさんが魅力的過ぎてることがすべての発端な気もしてくるぜ…。
そして不完全な形=初号機を使ってのサードインパクト、そして「人類補完計画」が遂行されていきます。実行はゼーレの思惑通りに進み、みな敬愛する人物を一緒になるという「幸せなLCL」になり「救済」されていきます。このシーンでマヤはリツコを、マコトはミサトのイメージを持ち、浄化されていきます。リツコとミサトはそれぞれゲンドウとリョウジという想い人がいたにも関わらず、です。これは「補完」された後は本人の思い描く世界が実現する、個々人の中にだけ存在するパラレルワールドの出現を意味しているように感じました。
そして、最後にはシンジも「救済」されるはずが、ここが不完全な「人類補完計画」の抜け穴でした。TV版では「補完」されることを選びますが、『まごころを、君に』のシンジは過去の記憶からこれを拒否、結果としてシンジとアスカだけがLCLにならず、二人以外は消え去った世界に戻ります。
前述のようにシンジはエヴァに乗ることで自分を認めてくれる、ということに執着しました。そして実際にゲンドウ含め、みなそれを受け入れてくれていました。唯一人、アスカだけを除いては。アスカはシンジが助けても認めてくれることはなく、むしろそのプライドから突き放してきました。だからこそ、最後にアスカは選ばれました。シンジが「人類補完計画」を拒否した現実は、アスカに受け入れてもらう、愛してもらう世界でした。本当は殺したいほどに侮辱してきたアスカの首を絞めるも、頬に手を当てられます。絶対的な力関係もなく、エヴァもない世界でもアスカが自分を愛してくれる、その希望を感じ取ったシンジは手を緩めます。「補完」されなくても、現実でも自分を認められる、そう思った次の瞬間、アスカは言います。

「気持ち悪い」

「新世紀エヴァンゲリオン まごころを君に」の画像検索結果

そう、間違いなく「人類補完計画」は失敗に終わりました。シンジの望んだアスカではありませんでした。しかし、シンジが積極的に選んだ「現実のアスカ」ではあったのです。現実に救済はない。そうまざまざと見せつけられたシーンでエヴァンゲリオンは終劇を迎えます。

 

4.「気持ち悪い」というエンディングから考える、この映画のテーマと現代からの視座

この作品の最期を「気持ち悪い」としたこと、それがこの映画のテーマそのものだったのではと考えます。セカンドインパクトのさなか、映像が一時実写へと変わります。その中でシンジの「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」という問いにレイが「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」と答える、そんなシーンが半ば唐突に入ります。しかも一般市民というよりは、明らかにオタクの映像を用いて。
これはそのまま「エヴァンゲリオンは夢(アニメでしかない)で、現実ではない」という庵野監督からのメッセージでしょう。作品に逃げるのではなく、あくまで現実と向き合えという、ある種の強烈な皮肉です。上映当時は実際に殺害予告まがいの文章なども送られてきたそうですが、まさにそういうことだよ、というエンディングとメッセージです。いつまでも夢の中にはいられない、現実と向き合え、それは「気持ち悪い」といわれる現実化も知れない、だが、それでも直視して歯を食いしばって生きていかなければならない世界だ。夢に逃げるな、現実で愛を捕まえろ、そう伝えたいという意図でしょう。

そして現代の視座からこのシーンを見るとまた違った感想を持つことになると思います。現代のサブカルチャーはどんどん現実との境界を肉薄し、ある意味ではもう一つの現実のような様相を呈しています。アニメは高精細で実写に近いような表現も可能ですし、声優は会いに行って話したり写真を撮ったりできる存在になりましたし。制作現場の生の声はSNSで見ることだってできます。つまり映画公開当時よりもぐっと「非現実が現実に迫っている」のです。ファン同士のコミュニケーションも容易になり、その気になれば「好きなことで生きていく」ことも可能です。
しかし、オタクの浮世離れは進んだでしょうか?答えはノー、むしろ「それはそれ、これはこれ」で割り切っているオタクが増えているように思います。夢と現実という区分ではなく、どちらも現実であるという考え方です。もしくは2つの自分を使い分ける、と言ってもよいでしょう。学校や会社、家庭、友人恋人の前での自分と、オタクを楽しむ自分はあくまで同一であり、不可分かつ可分な自分自身であると言えます。聖地巡礼も裏アカ、リアアカも同じ土俵です。おそらく現代であの実写パートをやったとしても、叩かれるのではなくあっさり受け入れられてしまうと思います。そんなの当たり前だろ、と。サブカルチャーメインカルチャーの中の一部として大きなうねりの中に取り込まれていきます。夢に逃げるという選択肢ではなく、現実を増やすという手段を身に着けるに至りました。
そうすると変化するのは「救い」です。公開当時はこのような夢に逃げる、という行為自体をタブー視しましたが、それを反転させ現実とすることで飲み込んだのが現代。とするならばエヴァで示された「他者からの愛」という救済手段すら断たれてしまうことになりかねないだろうか。今まで夢であったものを現実として内在化することで、現実を見ろという叱責を交わすことができる、という解釈です。庵野が示した「他者からの愛」という価値基準にすがらずとも、現実のなかで充足されていく、それこそが現代であると言えそうです。結婚や家庭を持つことだけが幸せの形ではない、という認識は広くなりつつあります。未婚率が高まっているのは経済的や社会の様々な要因が複雑に絡まっていますが、幸せの定義を自分で構築し、それが広範に認められる社会風土が生まれつつある、ということも大きく影響しているように思います。もちろん愛はこれからも普遍的な価値観として残り続けます。しかし、その対象をどうするか、という問いが生まれていることも事実です。性的志向自己実現、他者実現、社会貢献など方向性の拡大が現代社会の1つの潮流です。オタクを否定しようとしたエヴァの幕引きも、「現実」の一部として吸収されていきます。エヴァを愛し、熱狂するのも一つの現実だ、と達観しつつ、狂気に溺れる自分を楽しむ、これこそが今の社会のオタク像といえるでしょう。

だから今ならアスカの「気持ち悪い」は否定されることなく、すんなりと受け入れられてしまうでしょう。その「気持ち悪い」は、作品という「夢の中」ではなく「現実」なのだから。

 

5.最後に

長々と感想を書いてきましたが、本当に楽しめる作品でした。理不尽にエヴァに乗せられるのも、エヴァが最初に動かないのも、日常パートとの落差も、複雑な設定も、意味深なセリフ回しも非常に魅力的でした。その証左に公開から四半世紀経ってもこんなブログ書いてますし…。
アフターエヴァのオタクの世界線を生きてきたので、新しい視座でこれからの作品を見れるのはすごく楽しみです。新劇の最終章もどうなるか、すごくワクワクします。個人的には新劇では「人類補完計画」を否定されるのではないかなと考えていますが、、

今回はこんな感じで。

【考察】『憧れFuture Sign』がRe:ステージ!ドリームデイズ♪のEDだった理由とは?

こんにちは、くろーぷです。
今日7月7日はRe:ステージ!ドリームデイズ♪の放送開始日です。1年前の今日、Re:ステージ!は新たな歴史を刻み始めました。13週にわたる物語は多くの感動を呼び、リメンバーズの記憶に焼き付くものとなりました。ありがとう、Re:ステージ…。

 

リステDDは楽曲にもかなり力を入れており、作中歌は大きな注目を集めました。様々な場面を彩る美しい新曲を数多く生み出した本作ですが、エンディングテーマに据えられたのは既存曲、それも初期に発表された『憧れFuture Sign』でした。これには当時アニメ化以前から応援をしていたリメンバーズの間で大きな話題になりました。椿本プロデューサーの計らいとのことでしたが、なぜこの曲だったのか、ここまで具体的なことは語られずに来ました。今回、アニメ公開1年という節目のタイミングでこの疑問に個人的な見解で解答してみようと思います。

 

今回私が考えた案は2つです。

 

  • 作る段階からアニメのエンディングを意識したのではないか
  • 古参へのはなむけではないか

 

これら中心に、この歌の意味と選ばれた経緯について考察していこうと思います。 

 

 

1.作る段階からアニメのエンディングを意識したのではないか 

『憧れFuture Sign』の発売は2017年1月18日。KiRaReとしては3枚目のシングルで、オルタンシアの『Flowers~となりで咲く花のように~』と同時発売でした。発売前からMVが冬コミで先行公開されるなど、かなり力の入ったプロモーションを行った楽曲でもありました。当時を思い出すと「キラリン☆感謝祭~集まれ!リメンバーズ~」で新曲の制作が発表されたこともあり、非常に期待値が高まっていたように感じます。16年の年末にはお渡し会も行われるなど、コンテンツの新しい始まりを予感させるものでした。

 

そして満を持して発売され、オルタンシアとの合同イベントも行われ、ステラマリスのデビュー曲も発表されるなどコンテンツ全体の勢いも過去最高に高まっていました。このような背景の中リリースされた『憧れFuture Sign』はKiRaReの、Re:ステージ!の大きなターニングポイントになった曲です。

 

その後17年6月には1stライブが行われることになるのですが、リステップリリースなどが行われたものの全体としての勢いはデビューした16年から比べるとかなり失速。ノベルの連載は終了し、P'sライブ以外にライブの発表は一切無く、Re:ステージ!としてのライブは翌年7月の2ndまで無い状態が続くことになります。この時の肌感はかなり厳しく、正直2ndでリステは終わるんじゃないか、そんなふうに思っていました。そんなリステの直面する良くない状況のなか、ふと初めて『憧れFuture Sign』を聞いた時の「なんだかエンディングみたいだな」という感覚を私は思い出していました。リステが終わるその瞬間のための楽曲、そう言われても違和感がないほどの空気感を纏っている、そんなふうに感じました。これが、私が当時抱いていたこの曲への感覚です。

 

しかし、本当はこの裏でアニメ化、Re:ステージ!ドリームデイズ♪への構想が進んでいる真っ只中で、演者にも伏せられるくらいの状況でした。現に立花芽恵夢さんは2ndのサプライズ映像はアニメ化発表ではなく解散発表だと思ったとコメントをしています。

 

これらの状況を総合的に鑑みると、椿本Pがアニメを意識して曲をオーダーした可能性はあったと思います。実際にEDに使うかは別として、そのようなイメージはあったのではないでしょうか。「憧れ」という単語がアニメを指し、未来からの目印を追い求める、そんなことになると見越して作られた、そんな風にも聞こえると思います。

 

しかし、ただ意識して作られただけではわざわざ新譜販売という機会を逃してまでこの曲をEDに据える意義は小さいです。それでもあえてこの曲が選ばれた。そこにはまた別の理由があると私は考えています。

 

2.古参へのはなむけではないか

2つ目の説は「古参へのはなむけ」として『憧れFuture Sign』が採用されたのではないか、というものです。

 

Re:ステージ!というコンテンツの珍しい点として「アニメ化を前提としていない(確実にアニメ化されるとは限らない)コンテンツ」としてスタートしたところです。近年のキャラクターコンテンツの多くはアニメ化を軸に展開されることが多く、そうでなくてもゲームがローンチ段階で稼働を開始するなど、メディアミックスでの展開がほとんどです。その中においてリステはノベルとCD展開がメインとなり、映像でのキャラクターはほとんど描かれないコンテンツでした。

 

そのような珍しいコンテンツにおいて、スタート時から追いかけ続けてきたリメンバーズの存在がアニメ化において重要なファクターになったのだろうと思います。正直なところ当時人気があるコンテンツとは言えない状況にあって、それでもアニメ化するという判断になったのは当時のリメンバーズがリステを愛していたこととは無関係でないでしょう。個人的な肌感覚で恐縮ですが、間違いなく当時のイベントにも愛がありましたし、大人気コンテンツではないからこその「大切にしていこう」という空気がありました。

 

2ndのアニメ化発表時にはKiRaRe一人ひとりから「ここまで来られたのは他でもないリメンバーズの皆さんのおかげです」「367Daysに歌われた「君」とは私たちだけでなく皆さんのことでもあります」という言葉もありました。椿本プロデューサーからも今までの感謝を伝える言葉もありました。大きくコンテンツが動き出すタイミングだからこそ、今までのリメンバーズを大切にしよう、そんな意図が伝わってくるようでした。

 

そのような状況においてRe:ステージ!がアニメになるということは、本当に大きな衝撃を持って受け止められました。キャラクターが動く、歌う、踊る。そんな特別な瞬間を彩る曲は何にすべきか、大いに逡巡があっただろうというのは想像に難なくありません。

 

だからこそ、選ばれたのは『憧れFuture Sign』だったのではないか、そう感じるのです。リステがアニメになる、その瞬間まで支えてきたリメンバーズへのはなむけ、過去と現在を繋ぐ役割をこの曲に託したのでしょう。エンディングを聴きながらあれこれ思い出す、そのような楽しみ方、作品への没入を期待してのことだと思います。実際にリステDDのキャラデザが発表されたときは原案の泉つばす先生の絵からかけ離れており、多くのリメンバーズが「本当にこのキャラデザなの?」「5分枠か?」「つばす先生絵じゃないならモチベが」という意見も多くありました。もちろん、現場も最善を尽くしてのことだったとは思いますが、同時に受け入れてもらえないのではないか、という心配はあったと思います。昔からお応援しているリメンバーズ相手ならなおさら。

 

だからこそ 『憧れFuture Sign』に一体感・一貫性を醸成するという難しいタスクを課したのではないでしょうか。苦しい時期を象徴するような、それでいて希望に満ちた『憧れFuture Sign』こそ、目の前に映る作品が紛れもなくRe:ステージ!であるということを証明するかのようでした。キャラデザも変わり、新曲が使われ、キャラクターが動く、そんな新たなことばかりのリステDDにあって、その存在を確実に過去が反映され、いつかのあの瞬間を思い出す、そのトリガーを果たしていました。

 

3.『憧れFuture Sign』は何を伝えるためにEDに選ばれたか

Re:ステージ!が築き上げてきた歴史があったからこそ選ばれた『憧れFuture Sign』。改めてその歌詞を少し考察してみたいと思います。個人的にこの曲のカギを握るのは落ちサビ前のパートだと考えています。

 

(きらめいた)歓声の雨 余韻が

(ゆらめいた)静寂にこだました

(消えないや)指先の震えはもう止まって

(消えないよずっと)いつの間に

(会いたくて)この瞬間が欲しくて

(何度でも)何度でも繰り返したんだ

憧れだよ

未来への期待を そんな歌歌おう とびきり“大好き”さ

 

 

アニメになるまで何度となく立ち現れた「静寂」。その怖いほどの静けさに響いたのはリメンバーズの声援であり、メンバーの、スタッフの励ます声だったのだと思います。アニメ化が発表される瞬間、そしてアニメが放送される瞬間、そしてそれまでのひとつひとつの歩み。そのために繰り返してきたかすかな希望への「憧れ」。だからこそ歌われた「そんな歌」。憧れという遠い存在だからこそ、Re:ステージ!のもう一度、何度でも、というコンセプトを切ないまでに表現している、そんな曲ではないかと思います。

 

そして今アニメが終わり、Re:ステージ!は新たな舞台へと進もうとしています。残念ながらChain of Dreamは残念ながら延期となってしまったものの、アニメの後だからこそ見られる世界が、聴ける音楽があったはずです。『憧れFuture Sign』の最後、KiRaReの6人はこう歌っています。

 

想いの全部 つながって

見てみたいな君と 新しい夢のその先へ

輝け私たち いつまででも どこまででも

 

今こそが「新しい夢のその先」だと私は思います。だからこそ「いつまででも どこまででも」輝くKiRaReが、Re:ステージ!がアニメから1年たってもなお見たいと、心からそう思います。「想いの全部 つながっ」た先に何があるか、その瞬間を見られることを、本当に楽しみにしています。

 

今日で『Re:ステージ!ドリームデイズ♪』の放送からちょうど1年です。22:00に『Brilliant Wings』が流れたあの感動を忘れていませんし、これからも心の中に残り続けていきます。Re:ステージ!がこれからどんな展開を見せるのか、私にはわからないですし、どうしてほしいということも野暮でしょう。しかし、確信を持てることがあるとすれば、それはこの先も過去を大切にするコンテンツであり続けるだろうということです。アニメで多くのリメンバーズが生まれ、愛してくれたからこそ、Re:ステージ!の今があります。現在は常に更新され、過去が積み上がっていきます。その過去は過ぎてしまったものではありません。Re:ステージ!というコンテンツの中では肯定すべき、今の自分を作り上げ、未来へ向かう原動力です。Re:ステージ!がRe:ステージ!である限り、それまであったことを肯定し、そのうえで新しい世界を見せてくれるでしょう。

 

「今ここが君とあの日夢見たスタートライン」。スタートラインに立つまでのいままでこそRe:ステージ!の本質であり、そのスタートラインが更新されるたびに新たな本質が生まれる。この繰り返しこそがRe:ステージ!なのだと、今『憧れFuture Sign』を聴きながら感じています。

 

これが私にとっての『憧れFuture Sign』です。憧れという果て無き世界へ進む、それこそがこの曲であり、Re:ステージ!そのものではないでしょうか。これからもRe:ステージ!がRe:ステージ!であるために、この曲は美しく過去と未来を繋げていくはずです。

KiRaRe 憧れFuture Signのジャケット画像

チケ代2倍についてオタクはどう捉えるべきなのか

こんにちは、くろーぷです。

 

昨日の夜鬼頭明里さんのツアーのチケット代が2倍になったとの発表があり、かなり話題になりました。

多くの人がいろんな視点で様々な感想をツイートしていて、まぁ確かに荒れる話題だよなって思いながら見てました。

 

確かにチケット代が2倍になったらどう思うかなとか思うとなんとも言えないんですが、多分オタクの主な話題って

・自分のコンテンツもチケ代2倍になるんじゃないか

・2倍は取りすぎだろ

・行ける人と行けない人を選民する気か?

みたいなところだと思います。今回はこの辺りのことについて、自分が思うところについて書いていこうかなと思います。

 

1.チケ代が2倍になった背景について

まずチケ代2倍ですが、背景を整理しつつ「自分のコンテンツも2倍になるのか?」という疑問について考察していきます。

まず2倍になった背景ですが、鬼頭明里さんのツアーは少し特殊な状況があります。それは「コロナ禍でイベントを決行しつつ、日程(会場)は延期されず、かつチケットは捌いていなかった」ことです。

ここまでいろんなイベントが延期・中止になってきましたが、その多くが既に公演が決まっていてチケットも売っていたものでした。また日程も8月以前であり、9月末から10月の鬼頭明里さんのイベントとは違う日程でした。

このような背景から、まず運営としてはイベントを開催できるが箱はもう今からでは取れないので「キャパの半分」という政府規定に則って開催するという運びになったのでしょう。箱が半分になるからチケ代2倍というめちゃくちゃ簡単なはなしですね。

ただここで考えなければならないのは箱が半分ということは単純に倍率も2倍になるということです。ですが、チケ代が2倍ですので、申し込む人の人数は少なくなり、実質的な倍率は元々の倍率の2倍を割り込むと思います。1,6倍くらいですかね?それでも高くはありますが…

 

以上を鑑みて「他のコンテンツでもチケ代が2倍になるのか?」という問いですが、個人的には既存の延期されているイベントが2倍になることは考えにくいものの、これから発表されるイベントでは大いにあるだろうな、と思っています。

既存のイベントはチケ代2倍にすると言ってもどうやって集金するのかという問題がありますし、箱も簡単には変えられません。ですから恐らく値段はそのままで通常のキャパでもできる状態になるまで寝かせることになると思います。いつになるかはわかりませんが…

となると、逆に言えば冬ごろに開催は決まっているものの、まだ告知されていないイベントはこのチケ代2倍のスタイルで発表される可能性が大いにあります。というかされるでしょう。

つまり「どのオタクにもチケ代2倍の可能性がある」というのが僕の結論です。

 

じゃあ2倍になった場合どう考えるべきか、という話ですが、次に続けて考察していきます。

 

2.チケ代2倍をどう捉えるべきか

チケ代2倍…まぁ普通に高いですよね、事実として。良いとか悪いとかではなく高い。で、この高さがコトを複雑にしています。

 

まず「選民」という視点です。1万越えのチケットを簡単に買える層は多くないでしょう。手前味噌ですが高校生の頃からイベントに通っていた身としては、半年に一度7000円のチケ代をなんとか捻出するとかザラでした。だから行けない人は絶対出てきます。倍率的にも金銭的にも。

ここで間違ってはいけないのは「行ったやつが偉い、行けないやつはファンじゃない」という考えですね。当たり前ですが、イベント行くにはチケ代以外にも交通費や宿泊費がかかることもありますし、物販だって買います。またスケジュールを調整しなくてはなりません。その上で抽選。今回行けた行けないは複雑な要素がたくさん絡み合って生まれます。チケ代2倍云々ではなくいけないこともある。だからこそくだらない選民思考で内部を荒らしたり承認欲求を満たしたりするのは絶対やるべきではないですね。

 

次に演者やイベントをする側の視点を持った方がいいなと思っています。イベントはチケ代だけではプラスになっていないのは有名な話ですね。物販含めてやっと利益がでる、そういう業態です。今回キャパを半分にするということは直接的に物販の売り上げが半分になり、それどころかチケ代のこともあり物販に出し渋ることは容易に想像できます。つまり運営もかなり厳しい予想があって開催するはずで、まずそれでも決行する決断をした運営には感謝すべきだよなと思います。文句を言うのは簡単ですけど、裏を知って発言できると無駄なヒリツキなくて気分が良くなるよなと思います。

そして演者の側としては多大なプレッシャーがかかっていると思います。「2倍のチケ代」というのは演者も当然織り込み済みで、単純に言えばいつもの2倍厳しい目が向けられます。「あの値段払ったのにこれかよ」と簡単に思われてしまう可能性が高く、そういうネガティブな内容は発信・拡散がされやすいです。でもそんな状況で手を抜く演者の方がいるでしょうか?「この値段でも来てくれる」という気持ちは当然あると思います。それなのにオタクが「来た俺は偉い」とか「2倍払ってんだぞ、満足させろよ」という態度でネガティブチェックしながら減点法でライブを見ていたら演者さんはどう思うでしょうか?

さらに何ヶ月もブランクが空いてのイベント。ハードルが上がっている分失望されるかもしれないという気負いも絶対あるはずです。そこに見る側が寄り添えないなんて酷い話はないでしょう。ライブは演者と観客で作り上げるものです。その意識を忘れて「お客様は神様」だと勘違いして参加する、それは絶対にやってはならないと思います。こんな時だからこそ思いやりを持ってイベントに行く、そして良かったことを称える、そういう文化を作り上げるキッカケに今回の、そしてこれからのイベントはなるのではないかと思っています。

 

チケ代2倍、正直美味しい話ではないです。しかしだからと言って単純に文句を言うのではなく、それを飲み込んだ上でイベントを楽しむこと、それがいまの状況の捉え方だと思います。

 

良くも悪くもここがターニングポイントかなと個人的には思ってます。誰もが楽しくイベントに行けるきっかけを作るのか、それとも文句を言ってはいそれまでよなのか、一人ひとりがちょっとだけ自意識過剰に行動できたら、きっとコロナ後も楽しくイベント行けるんじゃないかなって思ってます。